デジタル大辞泉
「人見絹枝」の意味・読み・例文・類語
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ひとみ‐きぬえ【人見絹枝】
- 陸上競技選手。岡山県出身。大正一五年(一九二六)スウェーデンで開かれた第二回万国女子陸上競技大会で、走り幅とびで優勝、昭和三年(一九二八)第九回アムステルダム‐オリンピックで八〇〇メートル競走に二位入賞のほか、各種目に七回にわたり世界記録を樹立。明治四〇~昭和六年(一九〇七‐三一)
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人見 絹枝
ヒトミ キヌエ
昭和期の陸上選手
- 生年
- 明治40(1907)年1月1日
- 没年
- 昭和6(1931)年8月2日
- 出生地
- 岡山県御津郡福浜村(現・岡山市福成)
- 学歴〔年〕
- 二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)卒
- 経歴
- 岡山県立高女時代、走り幅跳びで4メートル67の日本新を出す。大正13年二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)に入学後は三段跳びで10メートル33の世界記録をマーク。15年大阪毎日新聞社に入社。同年8月スウェーデン・イエーテボリで開催された第2回万国女子陸上競技大会に出場、走り幅跳びで5メートル50の世界新を出し、個人総合優勝。昭和3年日本選手権大会で100メートルに12秒2、走り幅跳びに5メートル98の世界記録をマーク。同年のアムステルダム五輪では日本人女性として初めて出場し、800メートル2分17秒6の世界タイ記録で銀メダルを獲得した。5年第3回万国女子陸上競技大会に選手団団長として参加、団体4位、個人2位となる。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
人見絹枝 (ひとみきぬえ)
生没年:1907-31(明治40-昭和6)
女子陸上競技選手。岡山県出身。岡山高等女学校を経て,1925年二階堂体操女塾(現,日本女子体育大学)卒業。京都第一高等女学校教諭となったが,26年大阪毎日新聞社に入社,陸上競技に専念する。この年の第2回世界女子陸上競技大会(スウェーデンのイェーテボリ)に単身参加し,走幅跳び,立幅跳びで1位など,個人総合優勝した。その後,走幅跳び5.98m(1928),200m24秒7,三種競技217点(1929)の世界記録を樹立。女子陸上競技が初めての種目となった28年の第9回アムステルダム・オリンピック大会に出場,800mに2分17秒6で2位,日本の女子選手で初のメダリストとなった。31年肋膜炎で倒れ,24歳の若さで死去。不世出のスプリンターといわれ,日本の女子陸上競技の向上に貢献した。
執筆者:広畑 成志
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人見絹枝
没年:昭和6.8.2(1931)
生年:明治40.1.1(1907)
日本女性初の国際的陸上競技選手。岡山県生まれ。大正12(1923)年17歳で第2回中等学校競技大会の走り幅跳びに4m64(非公認日本記録)で優勝。二階堂体操女塾(日本女子体育大)に進学し,卒業後,大阪毎日新聞運動部記者をしつつ,15年第2回万国女子オリンピックに単独参加,個人優勝。昭和3(1928)年第8回オリンピック(アムステルダム)に紅一点参加,期待された100mでは第2予選で敗れるが,800m2位で日本女子初のメダリストとなった。5年第3回万国女子オリンピックに後輩5人を率いて参加,団体4位個人2位。この間世界新記録を4回出している。第2回万国女子オリンピックに人見を送り出すに先だち,国際女子スポーツ連盟(1921年設立)加盟のため,日本女子スポーツ連盟が組織される(1926)など,彼女の存在が黎明期の日本女子スポーツ界を世界に開くきっかけになった。彼女自身も精力的な講演,執筆,募金活動などを通じて女子スポーツへの関心を喚起した。肺結核のため早世。著書は『スパイクの跡』など5冊がある。<参考文献>小原俊彦『人見絹枝物語』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
人見絹枝
ひとみきぬえ
(1907―1931)
日本女性初の海外陸上競技参加選手。岡山県生まれで、二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)を卒業後、京都第一高等女学校の体操教師などを勤めたあと、大阪毎日新聞社に入った。スポーツセンスを認められ、1926年(大正15)スウェーデンの第2回万国女子陸上競技大会にただ1人で参加し、走幅跳び、立幅跳び一位、円盤投げ二位、100ヤード競走三位で、個人最高の総合得点15点をあげ、会長特別賞を受けた。28年(昭和3)の第9回オリンピック・アムステルダム大会では、800メートル競走では二位だったが、一位のラトケ(ドイツ)とは胸一つの差で、同タイムの2分17秒6(世界タイ記録)をマークした。
[石井恒男]
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人見絹枝【ひとみきぬえ】
女子陸上競技選手。岡山県出身。陸上競技の万能選手として早くから頭角をあらわす。1925年,二階堂体操女塾(現,日本女子体育大学)卒業後,京都第一高等女学校教諭となる。しかし翌1926年,大阪毎日新聞社に入社し,陸上競技に専念。1926年スウェーデンのイェーテボリでの国際女子陸上競技大会で走幅跳び,立幅跳びに優勝。1928年のアムステルダムオリンピックの女子800mで銀メダルを獲得,日本の女子選手で初のメダリストとなる。7種目に世界記録を作ったが,1931年,過労のあまり肋膜(ろくまく)炎で倒れ,24歳という若さで世を去った。
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人見絹枝
戦前の女子陸上競技選手。1907年1月1日生まれ。26年、第2回国際女子競技大会に出場、走り幅跳び優勝、立ち幅跳び優勝、円盤投げ2位などの成績を残し、国際女子スポーツ連盟会長より名誉賞を授与される。28年7月、アムステルダムオリンピックに出場。女子の個人種目すべてにエントリーし、8月2日800メートル走で銀メダルを獲得。日本人女性初の五輪メダリストとなる。その後、30年まで世界の第一線で活躍し続けたが、女子選手への当時の蔑視・偏見の中、過密な大会スケジュールや資金の工面などで体調を崩し、翌31年3月、肋膜炎で入院。同年8月2日、肺炎により死去。享年24。著書に『スパイクの跡』『戦ふまで』『ゴールに入る』などがある。
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人見絹枝 ひとみ-きぬえ
1907-1931 大正-昭和時代前期の陸上競技選手。
明治40年1月1日生まれ。大正15年スウェーデンでの第2回国際女子陸上競技大会で個人総合優勝。昭和3年第9回アムステルダム五輪では800m競走で2位に入賞。日本女性初のメダリスト。過労で病にたおれ,昭和6年8月2日死去。25歳。岡山県出身。二階堂体操塾(現日本女子体育大)卒。著作に「ゴールに入る」。
【格言など】わたしが死んだら世間の人は何と思うだろう。人見は運動をやり過ぎて死んだ,女の子にスポーツをやらせるのは危険だといわないだろうか(最期の言葉)
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人見絹枝
ひとみきぬえ
[生]1907.1.1. 岡山
[没]1931.8.2. 大阪
女子陸上競技選手。 1925年二階堂体操塾 (→日本女子体育大学 ) 卒業。 1926年スウェーデンで行なわれた国際女子陸上競技大会に参加し,走り幅跳び,立ち幅跳びに優勝,円盤投げ2位,100ヤード3位の成績。 1928年アムステルダム・オリンピック競技大会では 800m2位に入賞した。 1929年ヘルムズ賞を受賞。その後,健康を害して 24歳で短い生涯を終えた。
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人見 絹枝 (ひとみ きぬえ)
生年月日:1907年1月1日
昭和時代の陸上競技選手
1931年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の人見絹枝の言及
【オリンピック】より
…女子水泳はすでにストックホルム大会から行われていたが,女子陸上競技が採用されたことで,女子スポーツの将来に新しい展望が開かれた。この大会で日本の[織田幹雄]が三段跳び,[鶴田義行]が200m平泳ぎでそれぞれ優勝して日本で初めての金メダリストになり,また女子陸上800mでは[人見絹枝]が2位に入賞した。32年,ロサンゼルス(アメリカ)で開かれた第10回大会では,オリンピック史上初めて10万人収容の大競技場が建設され,36年の第11回大会に提供されたベルリン競技場の施設とともに,大会施設の巨大化に端を開いた。…
※「人見絹枝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」