岡山(読み)オカヤマ

デジタル大辞泉 「岡山」の意味・読み・例文・類語

おかやま〔をかやま〕【岡山】

中国地方南東部の県。もとの備前備中美作みまさか3国にあたる。人口194.5万(2010)。
岡山県南部の市。県庁所在地。江戸時代は池田氏の城下町。山陽・山陰・四国を結ぶ交通の要地で、商業・工業が発達。岡山城後楽園などがある。平成19年(2007)1月、建部町・瀬戸町を編入。平成21年(2009)4月、全国で18番目の指定都市となった。人口71.0万(2010)。
[補説]岡山市の4区
北区中区東区南区

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精選版 日本国語大辞典 「岡山」の意味・読み・例文・類語

おか‐やまをか‥【岡山】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 岡と山。
      1. [初出の実例]「隣の国の百姓雲の如くに集り来て、岳山(をかやま)とも不云」(出典:今昔物語集(1120頃か)二八)
    2. 岡のような山。低い山。
      1. [初出の実例]「此の道辻、彼の岡(ヲカ)山に取り上げて鐘を鳴らし」(出典:太平記(14C後)三二)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 岡山県南部の地名。県庁所在地。平安初期、藤原氏の荘園が置かれる。戦国時代宇喜多氏が築城、山陽道を貫通させ、町人を集めて城下町を完成。江戸時代は池田氏三一万五千石の城下町。後楽園、岡山城址がある。明治二二年(一八八九)市制。瀬戸大橋によって四国と結ばれている。
    2. [ 二 ]おかやまけん(岡山県)」の略。
    3. [ 三 ] 大阪府四条畷市北西部の地名。忍岡(しのびのおか)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡山」の意味・わかりやすい解説

岡山(県)
おかやま

中国地方の南東部、山陽地方東部にある県。西は広島県、北は鳥取県、東は兵庫県に接し、南は瀬戸内海を隔てて香川県と対する。古くから瀬戸内航路、陸上交通が発達し、都と九州、大陸などを結ぶ重要な位置を占めていた。文化や産業が早くから発達し、県内各地に吉備(きび)文化の跡をみることができる。明治以降、近代的な港湾に恵まれなかったため、工業立地も兵庫、山口県に比べると立ち後れたが、第二次世界大戦後は阪神工業地帯に続く瀬戸内経済圏の中核としての地位を得ている。県全域からみると、県南部の岡山平野では産業、経済の発展がみられ、交通も整備されているのに対し、県中部、北部は吉備高原および中国山地で、高度経済成長期には人口流出が顕著で、過疎地域が多く出現している。

 人口は1950年(昭和25)166万1099人、1960年167万0454人、1970年170万7026人、1980年187万1023人、1990年(平成2)192万5877人、2000年195万0828人、2010年194万5276人、2015年192万1525人、2020年188万8432人。面積は7114.33平方キロメートル。人口密度は1平方キロメートル当り265.4人(2020)。県庁所在地の岡山市は人口約72万、広島市に次ぐ中国地方第二の都市で、中国地方東部最大の交通結節点である。人口約47万の倉敷市がこれに続き、このほか13市ある(2020)。市部人口は県総人口の94%を占めるが、2015年と2020年を比較すると、人口増加をみたのは、岡山、総社の2市とその周辺地区のみで、他は停滞ないし減少している。

 2020年10月時点で、15市10郡10町2村からなる。

[由比浜省吾]

自然

地形

北から南へ順に中国山地、盆地列、吉備高原、岡山平野が帯状、階段状に並び、南端に児島(こじま)半島がある。中国山地に発した吉井(よしい)川、旭(あさひ)川、高梁(たかはし)川の三大河川が南流して瀬戸内海に注ぐが、中・上流では深い谷をつくっている。瀬戸内海には多くの島があるが、大部分は香川県に属し、岡山県には東部の日生(ひなせ)諸島、西部の笠岡(かさおか)諸島のほか、備讃(びさん)瀬戸の若干の島が属する。中国山地には1000メートル級の山々があり、北東端の後山(うしろやま)(1344メートル)が岡山県最高峰である。北部中央には大山(だいせん)火山群に属する蒜山(ひるぜん)三座がある。中国山地南側の盆地列では、津山盆地が中国地方最大規模であるが、勝山盆地、新見(にいみ)盆地は小規模である。吉備高原は標高約400メートルで、西寄りがやや高く、所々に約500メートルの残丘があり、高原面は緩やかに起伏する。高原の特徴は吉井川以西、広島県東部にかけてがもっとも明瞭(めいりょう)で、高梁川流域にはカルスト地形もみられる。岡山平野は三大河川が形成した沖積平野で南半の大部分は干拓によるもの。平野の中には陸封された島が丘陵として散在し、児島半島も陸繋(りくけい)島である。

 自然公園には瀬戸内海、大山隠岐(だいせんおき)の二つの国立公園と氷ノ山後山那岐山(ひょうのせんうしろやまなぎさん)国定公園のほか、高梁川上流、湯原奥津、吉備史跡、吉備路風土記(ふどき)の丘、備作山地、吉備清流、吉井川中流の七つの県立自然公園がある。

[由比浜省吾]

気候

西南日本の、しかも瀬戸内海に位置するため、温暖寡雨である。1981~2010年の岡山市の年平均気温は16.2℃、年降水量は1105.9ミリメートルである。しかし海岸部から中国山地に向かうにつれてしだいに内陸的な特徴を示すと同時に、中国山地では山陰型の日本海式気候に近づく。とくに山間部は冬季の積雪も多く、スキーも可能である。海岸部では年間を通じて晴天の日が多く、3月ごろには乾燥度が高く山火事発生もしばしばある。夏季には夕凪(なぎ)現象が生じるのも有名。備讃瀬戸では晩春から初夏にかけて霧の発生が多く、海上交通に障害をもたらす。しかし全般的には、台風の直撃もきわめて少なく、自然災害は西南日本のなかでは少ない県である。香川県や出雲(いずも)地方で渇水に苦しんだ年にも、岡山県は被害を受けずにすんでいる。ただ、台風が室戸(むろと)岬沖合いを東進する場合、津山盆地の那岐山麓では広戸風(ひろとかぜ)とよぶ局地的突風が吹いて農業に災害を与えることがある。第二次世界大戦後では台風および梅雨時の豪雨で吉井川水系を中心に何回か水害が発生した。

[由比浜省吾]

歴史

先史・古代

人類の居住は更新世(洪積世)にまでさかのぼり、鷲羽山(わしゅうざん)遺跡など海岸から中国山地にまで遺跡が発見されている。縄文・弥生(やよい)時代の遺跡も豊富で、とくに弥生時代には全県下にわたり文化が発展していたことを示している。古代には県全域は広島県東部の備後(びんご)とともに吉備国(きびのくに)とよばれたが、やがて備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後に分かれ、さらに713年(和銅6)に備前北部が美作(みまさか)国とされた。吉備国の枕詞(まくらことば)は「真金(まかね)吹く」であり、古代以来、花崗岩(かこうがん)風化土壌から砂鉄を採取して鉄をつくり、また海岸では師楽(しらく)式土器(土師器(はじき))を用いて塩をつくった。この鉄と塩、および河川沿岸低地での稲作が繁栄の基盤をなした。古墳時代には、車塚古墳、造山(つくりやま)古墳(岡山市北区)、作山(つくりやま)古墳(総社市)、両宮山(りょうぐうざん)古墳(赤磐(あかいわ)市)などの大古墳にみられるように、強大な政治勢力が存在した。大和(やまと)朝廷の支配下では、国府は現在の岡山市中区(備前)、総社市(備中)、津山市(美作)に置かれ、吉備真備(きびのまきび)や和気清麻呂(わけのきよまろ)など中央政府内に有力な地位を占める者も出た。古代末から中世にかけては多くの荘園(しょうえん)が置かれ、そのなかには岡山市の鹿田荘(しかたのしょう)、大安寺荘、倉敷市の万寿(ます)荘、新見市の新見荘など著名なものがある。

[由比浜省吾]

中世

鎌倉時代には執権北条氏の家督領が美作、備前で増大し、幕府に離反する武士が増えた。児島高徳(こじまたかのり)の桜樹の伝説もこの時代のことである。南北朝時代には守護の勢力が強大化し、備前では赤松氏、備中では細川氏、美作では山名(やまな)氏、赤松氏が覇権を争った。戦国時代となると国人(こくじん)層のなかから戦国大名に成長する武士も出現し、宇喜多(うきた)氏が備前と美作に力を伸ばし、備中、美作では尼子(あまご)氏、ついで毛利(もうり)氏が勢力を得た。鎌倉時代から室町時代にかけては農業生産は大いに発展し、備中檀紙(だんし)、美作紙、備前焼、備前刀、備中刀、備中の鉄製農具などの工業が発達して諸国に知られた。市場町も新見の三日市、岡山の鹿田荘の二日市、西大寺金岡(かなおか)東荘の西大寺門前市、長船(おさふね)の福岡荘、大原町の大原保(おおはらのほ)などに成立し、牛窓(うしまど)は内海貿易港として繁栄し対明(みん)貿易も行われた。宗教界では浄土宗の法然(ほうねん)(源空)、臨済宗の栄西(えいさい)らの高僧が輩出し、雪舟等楊(せっしゅうとうよう)は水墨画を大成した。1573年(天正1)に宇喜多直家(なおいえ)が岡山城に移り、やがて織田氏に帰属し、子の秀家(ひでいえ)は備前、美作および高梁川以東の備中を領する太守となったが、関ヶ原の戦いで没落し、かわって備前、美作の領主となった小早川氏も1代で断絶、池田忠継(ただつぐ)が備前28万石、森忠政(ただまさ)が美作18万6500石を領した。

[由比浜省吾]

近世

備前の池田氏は2代で1632年(寛永9)に鳥取の池田氏と交替させられ、池田光政(みつまさ)が入封し、備中の一部とあわせて31万5200石を領した。備中は松山藩池田氏(6万5000石)、足守(あしもり)藩木下氏(2万5000石)、成羽(なりわ)藩山崎氏(3万石)、岡田藩伊東氏(1万石)のほか、多くの旗本領や天領に分割された。津山藩の森氏は4代で断絶し、やがて松平氏(10万石)になり、松山藩は池田氏から水谷(みずのや)、安藤、石川氏を経て板倉氏に移った。幕末期には親藩、譜代(ふだい)の津山、松山の両藩は佐幕派、外様(とざま)の池田氏は勤王派に分かれた。天領については倉敷のほかに、一時は笠岡、久世(くせ)(真庭(まにわ)市)にも代官所が置かれ、倉敷代官所は伊予(愛媛)、讃岐(さぬき)(香川)などの天領も管轄した。岡山藩は干拓による新田開発を大規模に実施し、稲作のほかに綿、菜種(なたね)などの商品作物を栽培した。また、瀬戸内海には塩田が発達し、牛窓、日比(ひび)、下津井(しもつい)、玉島、笠岡などの諸港や、河川では高田(真庭市)、落合、福渡(ふくわたり)、美作倉敷(美作市林野)、金岡(岡山市東区西大寺)、松山(高梁市)、備中倉敷(倉敷市)、庭瀬(にわせ)(岡山市北区)などの川湊(かわみなと)が発達し、農村における経済発展とともに仲買商の発生、農村工業の成立がみられた。そして人形浄瑠璃(じょうるり)や美作地方の横仙歌舞伎(よこせんかぶき)、備中地方の備中神楽(かぐら)などが農民間に盛んとなった。元禄(げんろく)(1688~1704)以後の経済変動の結果、山中一揆(さんちゅういっき)、渋染(しぶぞめ)一揆、改政一揆など多くの百姓一揆が発生した。近世後期の社会不安のなかで、金光(こんこう)教、黒住(くろずみ)教がおこり、前者は中下層農民に広まり、後者は地主、豪商を対象に布教された。なお、岡山県に本拠をもつ日蓮(にちれん)宗不受不施派(ふじゅふせは)は、近世を通じてキリシタンと同様に禁じられ弾圧を受けた。また、地主、村役人の間には学問熱が高まり、岡山藩の閑谷(しずたに)学校や笠岡代官所の明倫館(めいりんかん)をはじめ、多くの郷学(ごうがく)、手習所、私塾が開設された。岡田藩は地理学者古川古松軒(こしょうけん)を生み、津山藩では宇田川、箕作(みつくり)両家により津山洋学が発展し、松山藩の山田方谷(ほうこく)、吉備津神社の宮司藤井高尚(たかなお)などの国学者も輩出した。

[由比浜省吾]

近代

明治維新後、廃藩置県により14県と、他県に本地のある10県とに分かれたが、やがて備前は岡山県、美作は北条県、備中と備後東部6郡は深津県(のち小田(おだ)県と改称)に統合され、小田県は1875年(明治8)、北条県は1876年に岡山県に合併し、同年備後6郡は広島県に帰属し、現在の岡山県の領域が確定した。1872年の学制頒布(はんぷ)以来、岡山県の就学率は全国第1位、2位で水準の高さを示した。1879年の岡山県会の開設は自由民権運動を活発化させ、国会開設の全国運動への口火を切った。また女性運動の先駆者景山英子(かげやまひでこ)(その後福田姓)、社会主義運動家の片山潜(せん)、山川均(ひとし)、森近運平(もりちかうんぺい)、備作(びさく)平民社の三好(みよし)伊平次らが出た。産業の主体は農業、とくに稲作に置かれ、児島湾干拓が藤田組の手で行われ、水田拡張が図られた。干拓地において藤田農場は資本主義的大農場経営を試み、農作業における機械の導入は、隣接の興除(こうじょ)村の農民による自主的な自動耕うん機の製作へと発展し、日本の機械化農業発祥地としての名声を得た。綿作衰退にかわって岡山平野ではイグサ、県南西部ではハッカ、ジョチュウギク、タバコ、吉備高原ではコンニャク、タバコなどの工芸作物、岡山平野周辺部の丘陵地では果樹の栽培が発展し、明治末期から県北部では養蚕業が盛んとなった。これに対応して農村部では畳表、花莚(はなむしろ)、ハッカ油、そうめん、麦稈真田(ばっかんさなだ)(麦藁(むぎわら)で編んだ紐(ひも))の製造が発達し、岡山県の名産としての地歩を固めた。近代工業では1870~1880年代に岡山、下村(しものむら)(倉敷市児島)、倉敷、玉島、笠岡などに綿紡績が、県北部の町々では製糸工業がおこり、とくに地元資本の倉敷紡績は十大紡の一つにまで成長した。第一次世界大戦前後から重化学工業とその関連産業の発達がみられ、柵原(やなはら)鉱山の本格的採掘開始、南東部の耐火れんが工業の発達、玉野の三井造船所(現、三井E&S)や三井金属鉱業日比製煉(せいれん)所(現、日比製煉)、笠岡の神島(こうのしま)化学の建設が行われた。この間の人材としては、経済界ではビール王の馬越恭平(まごしきょうへい)、銀行・保険の矢野恒太(やのつねた)、政界では犬養毅(いぬかいつよし)、宇垣一成(うがきかずしげ)、平沼騏一郎(きいちろう)などが出た。第二次世界大戦中に水島に航空機工場が設置されて水島の工業化の端緒となったが空襲を受けた。なお、岡山市は県下唯一の空襲被災都市で、1945年(昭和20)6月に市街の大半を焼失し、死者1300人に及んだ。しかし県内の他の部分は破壊を免れて敗戦を迎えた。

[由比浜省吾]

産業

高度経済成長期以前には圧倒的に農業県の色彩であったが、工業開発とともに第二次産業の地位が急上昇して農業人口は激減、さらに低成長期に入ると第二次産業人口比率は停滞したのに対して第三次産業人口の比率は一貫して高まった。これを1960年、1970年、1980年、1990年、2000年、2010年の国勢調査による産業別就業者比率の推移でみると、第一次産業は43%、24%、13%、9%、6.6%、5%、第二次産業は25%、36%、37%、37%、32.6%、28.1%、第三次産業は32%、40%、50%、54%、60.8%、66.9%と変化してきた。

[由比浜省吾]

農林業

岡山平野、津山盆地のほか、中国山地の谷底部や吉備高原の一部にも水田が広がっているため、農作物の中心は米で、昔から備前米、備中米は優良品質で知られていた。他の農産物については高度経済成長期を境に相当な変化をみた。かつて岡山県を代表するのはモモ、イグサ、和牛であった。「白桃(はくとう)」は今日でも県名産で、岡山市、赤磐市、浅口(あさくち)市など県南で栽培されているが、果樹のなかでは第二次世界大戦後はブドウに重点が置かれてきたこと、県南部の工業化による農業労働力流出に伴って管理不足となったことから、県は県北に代替産地形成を図ったものの、ここもまた労働力流出に悩み、生産額は減少し、山梨、福島など主要生産県にはるかに追い抜かれている。ブドウは露地と温室に分かれ、マスカットを中心とする温室ブドウは、岡山市北区津高(つだか)、一宮地区や倉敷市船穂(ふなお)町が主産地で、全国の温室ブドウのほとんどを生産している。露地ブドウは岡山市東区西大寺地区、倉敷市船穂町や里崎地区のほか、吉備高原の一部にも産地が拡大された。しかし農業統計上では「果樹県」といえるほど、果樹にウェイトがあるとはいえない。イグサは岡山平野西半が産地で、かつては全国生産の半分を占めたが、1964年(昭和39)の作付面積5552ヘクタールをピークとして、農業労働力の他産業転出のため生産はみるみる激減し、最盛期の10%以下になっている。和牛は中国山地の村々で千屋(ちや)牛、新庄(しんじょう)牛など産地名をとった血統のよい黒牛が林間放牧によって飼われていたが、農業機械の普及のため役牛需要が減少するにつれて和牛生産も減り、かわって酪農が普及した。真庭(まにわ)市北部はジャージー種乳牛の飼育に特色があり、蒜山原(ひるぜんはら)開拓地はダイコンの新しい特産地になった。吉備高原では第二次世界大戦前の薪炭、コンニャク、在来種タバコの生産にかわって、黄色種タバコ、野菜、シイタケなどが導入され、県南部では各所に施設園芸による野菜、花卉(かき)栽培が行われている。山村では薪炭生産が衰退し、これにかわって造林が行われてきたが、山村の労働力不足と人口高齢化、近年の木材価格低迷のために展望は明るくない。吉備高原のマツタケ生産量は激減した。

[由比浜省吾]

水産業

岡山県の海域は比較的狭く、しかも浅海漁業であった児島湾、高梁川河口部や笠岡湾などは、干拓や埋立てにより漁場が失われ、水質も悪化した。備讃瀬戸水域はかつてタイ、サワラなど高級魚の産地であったが、第二次世界大戦後は漁獲量が激減し、かわってノリ、カキ養殖の比重が増大した。瀬戸内市牛窓には県水産研究所が置かれ、稚魚の孵化(ふか)、放流による水産資源増大に努力している。製塩業は、かつて入浜(いりはま)式塩田が児島半島に集中していたが、第二次世界大戦後に大幅に整理され、流下式塩田に切り替えられたものの、1971年(昭和46)にはすべて姿を消した。現在では、玉野市のナイカイ塩業のみが、イオン交換樹脂膜法により営業している。内水面では主要河川へのアユ放流が行われ、高梁川のアユがとくによいとされている。山間部ではマス、ヤマメの養魚も行われる。

[由比浜省吾]

鉱業

中国山地は古代から近世を経て明治中期まで日本における代表的な和鉄の産地で、岡山県北部も有力な一角であった。そのほか近世から第二次世界大戦ごろまでは各種の中小金属鉱山などがあったが、これらはいずれも閉山した。美咲(みさき)町の柵原鉱山(やなはらこうざん)は同和鉱業の経営による全国最大規模の硫化鉄鉱鉱山であったが、これも鉱体枯渇のために閉山し、鳥取県境の人形(にんぎょう)峠でのウラン鉱採掘は20年間続いたが1987年(昭和62)に終了した。現在稼働している主要鉱山は、備前市三石(みついし)での耐火れんが原料のろう石、新見(にいみ)市の石灰石、蒜山原(ひるぜんばら)での珪藻土(けいそうど)、笠岡市北木島などでの花崗岩(かこうがん)石材および各地での砕石用石材で、土石類が主体である。

[由比浜省吾]

工業

第二次世界大戦前の工業は、大手の綿紡績、製糸、化学繊維などのほか、中小企業ないし家内工業として衣料品縫製加工、素麺(そうめん)、畳表、花莚(はなむしろ)、麦稈真田(ばっかんさなだ)などの地場資源型の軽工業が主体で、重工業には大手や地場の造船、農機具製造、戦時中に開始した航空機製造などがあった。1953年(昭和28)以後、県は倉敷市水島の臨海地域の工業開発に努め、石油精製(新日本石油精製ジャパンエナジー〔両社ともに現、ENEOS〕)、石油化学(三菱(みつびし)化学〔現、三菱ケミカル〕など)、製鉄(JFEスチール)を軸とする素材生産型のコンビナートをつくりあげ、航空機から転換した三菱自動車とあわせて岡山県南新産業都市の中核となった。水島地区の事業所数は小企業まで入れると2014年(平成26)には245で、県に占める製造品出荷額等の比率は52.8%である。総社(そうじゃ)市には自動車関連の水島機械金属工業団地(現、ウイングバレイ)がある。

 岡山市では旭川河口の両岸に第二次世界大戦前からの企業に加えて新しい工業立地があったが、企業間関連はなく、規模も水島より小さい。中区の東岡山と北区の久米に工業団地があるほか、西大寺などに工場が点在する。玉野市は造船と銅製錬の工場があるが造船不況を経験して三井造船(現、三井E&S)の企業城下町の性格がゆらいだ。県南東部の備前市は耐火れんが工業と伝統的な備前焼の窯業地域であり、同市日生(ひなせ)町には製網工場がある。南西部の井笠地域は広島県福山市に続く備後工業整備特別地域となり、笠岡市には製鉄関連工場があり、井原市は倉敷市児島地区とともに伝統的機業地で、かつて学生服生産では岡山県が全国のトップを占めたが、現在は各種ジーンズの縫製を主力にしている。臨海地域の工業開発が終わると道路に着目した内陸型の工業立地が進み、県北部の勝央(しょうおう)町の勝央中核工業団地のほか、津山市、真庭(まにわ)市、新見市などに工業団地がつくられた。

[由比浜省吾]

開発

第二次世界大戦直後の食糧難の時代には児島(こじま)湾などの干拓事業の早期完成、蒜山原(ひるぜんばら)などの開墾に力点が置かれた。これに続く資源開発期には旭川水系に旭川ダムや湯原(ゆばら)ダムの建設が行われ、さらに産業開発期には高度経済成長を目ざして臨海地域の工業化、第一次全国総合開発の時代には水島臨海工業地域の形成・発展に県行財政が傾注され、高梁(たかはし)川水系にダム建設が行われた。新(第二次)全国総合開発期には新全国ネットワークの一環として新幹線、高速道路、本州四国連絡橋の瀬戸大橋に重点が置かれたが、大規模事業のために連絡橋や自動車道の完成には時間を要した。しかし事業完成後の交通位置を予見して、東西・南北の自動車道の交点付近に大規模な県総合流通センターが建設され、航空機のジェット化に対応して岡山市北部の丘陵地に新空港がつくられた。

 これらの反面、開発に伴うさまざまな環境問題・社会問題が発生した。高度成長期には田中内閣時代の日本列島改造論に乗った県外資本による土地の大規模買占めが横行して自治体の地域計画にも支障を生じるほどになり、県は国土利用計画法制定に先んじて県土保全条例を制定せざるを得なかった。児島湾干拓地の水利安定のために締切り堤防で造成した児島湖は水質が極度に悪化してゆき、ついに湖沼法指定湖沼になった。水島地区では工場の廃水・排煙が種々の災害を生み、とくに住民の間に呼吸器疾患が多発して公害病と認定され、補償要求裁判が提起されて和解までに長時間を要した。吉井川上流に計画された苫田ダム(とまただむ)は、地元の強い反対で30年以上も合意が得られなかったが、建設目的を次々に変更しながら強力に推進された。2005年(平成17)3月に完成したが、問題が残るダムである。県南部の成長に対して吉備(きび)高原や中国山地の農山村では人口減少が著しく、県は過疎対策の一つとして賀陽(かよう)町と加茂川町にまたがる地区(現、吉備中央町)に、福祉・医療施設、教育機関、工場、自然公園などを含む吉備高原都市を計画し、後にはこれにテクノポリス計画も折り込んだ。しかし新鋭工場の多くはむしろ吉備高原都市区域の隣の岡山市北区御津(みつ)地区などに立地している。

[由比浜省吾]

交通

近世までは山陽道をはじめとする陸上交通路もあったが、むしろ重要なのは瀬戸内海の海上交通路と河川交通であった。明治以後鉄道時代に入ると、岡山は山陽本線、津山線、吉備(きび)線、宇野線、伯備(はくび)線、赤穂(あこう)線、および国道2号などが集まる本州・四国の結節点となり、さらに山陽新幹線、瀬戸大橋の開通に伴う瀬戸大橋線、高速道路として瀬戸自動車道、山陽自動車道、岡山自動車道などが加わって重要結節点の度を加えた。県北部では、津山線、因美(いんび)線、姫新(きしん)線の集まる津山と、伯備線、姫新線、芸備線の集まる新見とが、中国自動車道も通っていて第二次的交通中心である。このほかに、第三セクター鉄道として倉敷に水島臨海鉄道、県東北部に「宮本武蔵駅」のある智頭(ちず)急行があり、南西部には井原鉄道がある。民鉄の西大寺鉄道、岡山臨港鉄道、井笠鉄道、片上鉄道、下津井(しもつい)電鉄はすべて廃止された。路面電車として岡山市内に岡山電気軌道がある。海上交通では水島、宇野、岡山の3港が重要港湾に指定されているほか、多数の地方港湾がある。長い歴史を有した宇野―高松間の国鉄(のちJR)宇高連絡船(うこうれんらくせん)は瀬戸大橋開通で廃止され、民間のフェリー航路も2019年(令和1)に休止された。岡山空港は岡山市浦安(南区)から同市日応寺(北区)のジェット機発着可能な新空港(岡山空港)に移転し、一部国際線の発着があり、旧空港(岡南飛行場)は小型機の訓練などに利用されている。

[由比浜省吾]

社会・文化

教育・文化

1669年(寛文9)の藩校開設に始まり、岡山藩は領内各所に手習所を開いた。そのうちで現在まで存続している名建築が閑谷(しずたに)学校である。幕末には洋学も盛んになった。明治以降は就学率がきわめて高かったのに加え、岡山県の特色として女子教育の水準が高かった。高等教育への端緒は1870年(明治3)設置の岡山藩医学館で、後に岡山医専(のち岡山医科大学)になり、1949年(昭和24)にこれと第六高等学校、岡山農専、岡山師範などが母体となって岡山大学が誕生した。2012年(平成24)現在、四年制大学としてはほかに、岡山市にノートルダム清心女子大学、岡山商科大学岡山理科大学、就実(しゅうじつ)大学、山陽学園大学、中国学園大学、環太平洋大学、倉敷市に川崎医科大学、川崎医療福祉大学、倉敷芸術科学大学、くらしき作陽大学、岡山学院大学、津山市に美作(みまさか)大学、高梁(たかはし)市に吉備国際大学、総社市に岡山県立大学、新見市に新見公立大学がある。短大は公立2校、私立7校、国立高等専門学校が1校ある。なお、蒜山高原に中国四国9県と兵庫県が設立した中国四国酪農大学校がある。

 岡山県出身の文化人のうちとくに著名な人をあげれば、物理学の仁科芳雄(にしなよしお)、小説・戯曲の正宗白鳥(まさむねはくちょう)、詩人の薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、歌人の木下利玄(りげん)、正宗敦夫(あつお)(白鳥の弟)、画家の正宗得三郎(敦夫の弟)、児島虎次郎(とらじろう)、竹久夢二、小野竹喬(ちくきょう)、池田遥邨(ようそん)、彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)、陶芸家の金重陶陽(かなしげとうよう)、藤原啓(けい)、将棋(しょうぎ)の大山康晴(やすはる)、経済界の岡崎嘉平太(かへいた)、土光敏夫(どこうとしお)がある。県出身者ではないが県下で活動した人には、1887年(明治20)に日本最初の本格的孤児院として岡山孤児院を設立した石井十次(じゅうじ)、歌人・国学者の井上通泰(みちやす)らがいる。現代の福祉活動でユニークなのは、身障者が自立できるよう「たけのこ村」を倉敷市真備(まび)町で開いた藤岡博昭(ひろあき)、国際的医療援助活動をするAMDA(アジア医師連絡協議会)を設立した菅波茂(すがなみしげる)である。集積した蓄財を個人や企業が社会に還元することは現代では例が多いが、その先駆はなんといっても大原孫三郎・大原総一郎父子による大原農業研究所、大原社会問題研究所、大原美術館の創設であろう。単なる財界人でなく幅広い文化人であった総一郎は、高梁川流域連盟を唱導し、機関誌『高梁川』を発行、流域出身の大学生に奨学金を出した。第二次世界大戦後では実業家林原一郎が林原美術館や林原研究所を、松田基が夢二郷土美術館を設立した。矢野恒太(つねた)は『日本国勢図会』を編集して統計普及に貢献した。

 岡山県を代表する地方紙は『山陽新聞』で、岡山県下一円のほか、広島県、香川県も頒布地域としている。前身は1889年(明治22)創刊の『山陽新報』と1892年設立の『中国民報』で、1936年(昭和11)に合併して『合同新聞』と称し、1948年(昭和23)『山陽新聞』と改題した。岡山県が文化賞、県文化奨励賞を設けたのに倣い、産業、文化、社会、教育、体育など優れた業績をあげた個人や団体に「山陽新聞賞」を贈っている。地方紙にはほかに『岡山日日新聞』『津山朝日新聞』があったが、『岡山日日新聞』は2011年廃刊になった。放送では、NHK岡山放送局が1931年に開局したのが最初で、2012年現在、ほかにラジオ局では山陽放送、FM岡山、エフエムくらしき、レディオMOMO、エフエムゆめウェーブ、エフエムつやま、エフエム津山、テレビ局では山陽放送、岡山放送、瀬戸内海放送、テレビせとうちなどがある。

[由比浜省吾]

生活文化・伝説

岡山県の民話・伝説のなかで、日本五大噺(ばなし)の一つに数えられるのが「桃太郎ばなし」である。鬼退治伝説は他県にもあるが、岡山県で「桃太郎」のもととなった伝承の概要は次のとおりである。垂仁(すいにん)天皇(または崇神(すじん)天皇)のとき、百済(くだら)の王子で温羅(うら)という鬼神が飛来して備中国鬼の城(きのじょう)(総社市)に住み着き悪事を働いた。朝廷から四道将軍として派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)(五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと))が吉備の中山(岡山市北区吉備津)に布陣し矢を射るが、温羅の射る矢と途中で食い合い落ちてしまう(岡山市北区高塚の矢喰宮(やくいのみや)由来)。そこで一度に二矢を放つと、一矢が温羅の左眼に当たり、血が噴き出して流れた(血吸(ちすい)川および赤浜の由来)。温羅は鯉(こい)になって川から海に逃げようとしたが、命(みこと)は鵜(う)になって捕らえ、噛(か)み上げた(倉敷市矢部の鯉喰(こいくい)神社の由来)。温羅は降伏し「吉備」の名を奉るといい、これで命は吉備津彦命となる。温羅の頭(こうべ)は串(くし)にさして首(こうべ)村(岡山市北区首部(こうべ)の由来)にさらしたが、大声でほえ続ける。そこで釜殿(かまでん)の釜の下深くに埋めたが、鳴りやまない。ある夜温羅の魂が命の夢に現れ、「わが妻を召して命の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ。さすれば我は命の使者となり、幸あらば裕(ゆた)かに、禍(わざわい)あれば荒らかに鳴り、民に賞罰を加える」と告げた。これは上田秋成の『雨月物語』にも記され、また現在も行われている吉備津神社の釜殿の「釜鳴(かまなり)神事」の起源であるという。なお、岡山県には犬養(いぬかい)(犬飼)姓や鳥飼姓があり、菓子には吉備団子(きびだんご)があるし、桃太郎少年合唱団、岡山市の桃太郎祭など、いまも桃太郎にちなむ名称をとるものが多い。歴史伝説としては源平合戦に関していくつかあり、その代表格が藤戸合戦で、『平家物語』の藤戸を典拠とした謡曲『藤戸』は有名。鎌倉時代には児島高徳が美作院庄(いんのしょう)で桜樹の幹を削って詩を記し、隠岐(おき)へ配流の途次の後醍醐(ごだいご)天皇に意を伝えた故事がある。

 豊かな歴史的背景に生まれた岡山県の文化財のおもなものをあげると、国宝指定に旧閑谷(しずたに)学校講堂、吉備津神社本殿および拝殿、太刀(たち)銘吉房(よしふさ)、太刀銘備前国長船住左近将監長光(おさふねじゅうさこんしょうげんながみつ)造、赤韋威鎧兜(あかいとおどしよろいかぶと)などがあり、国の重要文化財に岡山城月見櫓(やぐら)、長福寺の三重塔や絹本著色不動明王像、豊原(とよはら)北島神社(瀬戸内市)の色々威甲冑(いろいろおどしかっちゅう)、岡山大学蔵の『信長記(しんちょうき)』などがある。国指定史跡には旧閑谷学校(特別史跡)、造山(つくりやま)、作山(つくりやま)など多くの古墳、高松城跡、備中松山城跡などがあり、特別名勝に岡山後楽園がある。国の重要無形文化財に備前焼、重要有形民俗文化財に田熊八幡神社(たのくまはちまんじんじゃ)(津山市)歌舞伎舞台、重要無形民俗文化財に白石踊(しらいしおどり)(笠岡市)、備中神楽(かぐら)、大宮踊(真庭市)がある。この分布状況を概観すると、建造物の多くは寺社で県下一円に存在し、寺社に付属する彫刻、絵画もまた広く分布しているが、刀剣を中心とする工芸品は岡山市と瀬戸内市長船(おさふね)町の美術館に集中している。史跡は古代吉備文化が栄え、また武士たちが覇を争った岡山平野に多いが、天然記念物は開発、破壊の手の遅れた県中部、北部に多い。おおむね近世起源である無形民俗文化財も都市化の進んでいない吉備高原から中国山地にかけてと、県南部の縁辺に残されている。そして岡山平野北西部は吉備史跡県立自然公園、さらに文化財の集中している区域は吉備路風土記の丘県立自然公園に指定され、吉備路自然歩道が設けられている。

 自然美としては、瀬戸内海沿岸部は瀬戸内海国立公園の風光を誇り、笠岡諸島、日生(ひなせ)諸島をはじめとして夏季の海水浴場、リゾート地がある。県最北部の蒜山(ひるぜん)地方は大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属し、冬のスキー、夏の登山・キャンプに訪れる人が多い。北東部の山地は氷ノ山後山那岐山(ひょうのせんうしろやまなぎさん)国定公園に属し、旭川上流から吉井川上流にかけては湯原奥津県立自然公園、高梁(たかはし)川上流と成羽川沿岸は高梁川上流県立自然公園に指定されている。

 歴史的庭園で岡山県を代表するのは1689年(元禄2)に完成した岡山藩主の御後園(ごこうえん)(後楽園(こうらくえん))で、日本三名園の一つとして名高い。津山藩主庭園の津山市衆楽園(しゅうらくえん)、足守(あしもり)藩主の岡山市近水園(おみずえん)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の高梁(たかはし)市頼久寺(らいきゅうじ)庭園も著名である。

 新しく建設されたテーマパークとしては、井原市の中世夢が原、赤磐市の岡山農業公園ドイツの森クローネンベルクなど、また、音楽・演劇などの公共施設として岡山シンフォニーホール、倉敷市芸文館などがある。

 岡山県の伝統的な工芸のうち、備中檀紙(だんし)はすでに廃絶し、現存するが生産者がきわめて少なくなっているものに岡山市の烏城紬(うじょうつむぎ)(1978年伝統工芸功労者賞受賞)や撫川(なつかわ)うちわ、津山市の作州絣(かすり)、和紙(金箔(きんぱく)台紙用)、真庭市の高田硯(すずり)などがある。備前市の備前焼は岡山県を代表する陶器で、中世六古窯の一つとして全国的に有名。桃山時代から茶器・花器は珍重されたが、本来は壺(つぼ)、すり鉢などの日用雑器を生産していた。釉薬(ゆうやく)を用いず窯変を楽しむ陶器で、停滞期もあったが、第二次世界大戦以後ふたたび愛好家が増え、製作者も増加し、金重陶陽(かねしげとうよう)、藤原啓(けい)、山本陶秀(とうしゅう)、藤原雄(ゆう)が人間国宝に指定された。陶器はほかに瀬戸内市邑久町の虫明焼(むしあけやき/むしあげやき)、倉敷市の酒津(さかづ)焼・羽島(はしま)焼、里庄(さとしょう)町の大原焼、笠岡市の吉備焼などがある。木工には大野昭和斎(人間国宝)が出た。藺(い)製品も岡山県の代表的産物で、畳表、花莚(はなむしろ)のほか、テーブルセンターなど小物も各種ある。原料のイグサ栽培は激減したが、熊本県より移入し、岡山市北区妹尾(せのお)、早島町、倉敷市などで織られる。花莚製造に関しては1878年(明治11)に技法を発明した磯崎眠亀(いそざきみんき)の功績が大きい。早島町歴史民俗資料館に隣接して古い手機(てばた)の実演やそれによる製品など、藺業の歴史の品を展示した花ござ手織り伝承館がある。

 こういった仕事に従事した人々の労働歌などが民謡となり歌い継がれてきたが、いまでは民俗行事や保存会で伝えられている場合が多い。新見市の田植唄(うた)、牛追い唄、笠岡市白石島の白石踊唄、同市北木島の石切り唄などである。井原・矢掛(やかげ)地方の子守唄を山田耕筰(こうさく)が編曲したのが『中国地方の子守り唄』である。岡山県人にもっともポピュラーなのは『下津井節』で、近世海運とともに日本海側や太平洋側に流布し、どの地が起源か不明だが、どこも似たメロディである。民衆自らが参加し保存してきた芸能として文化財指定を受けたものも前記のように多く、備中神楽(備中地方)、横仙歌舞伎(よこせんかぶき)(那岐山麓地方)、大宮踊(蒜山地方)、唐子(からこ)踊(瀬戸内市)、白石踊(笠岡市)などがある。伝統の維持だけではなく、創造を進めてゆく活動もまた多いが、他地方に類のないものとしては久米南(くめなん)町の町民の多くが川柳(せんりゅう)をたしなみ、「川柳大会」の行事もあることをあげておこう。JR津山線弓削(ゆげ)駅にはいつも新作川柳がいくつか掲げてある。

[由比浜省吾]

『藤井駿他編『岡山県の歴史』(1962・岡山県)』『谷口澄夫著『岡山県の歴史』(1970・山川出版社)』『進昌三・吉岡三平著『岡山の干拓』(1974・日本文教出版)』『青野寿郎他編『日本地誌第17巻 岡山県・広島県・山口県』(1978・二宮書店)』『『岡山県大百科事典』上下(1980・山陽新聞社)』『岡山県史編纂委員会編『岡山県史』全30巻(1981~1991・岡山県)』『『日本歴史地名大系34 岡山県の地名』(1988・平凡社)』『『角川日本地名大辞典33 岡山県』(1989・角川書店)』



岡山(市)
おかやま

岡山県南部、岡山平野の中央に位置する市で、県庁所在地。1889年(明治22)市制施行。当時の人口は4万7564。1899年三櫂(みさお)村、1921年(大正10)伊島、石井、鹿田(しかた)の3村、1931年(昭和6)福浜、宇野、平井の3村、1952年(昭和27)牧石、大野、今、芳田(よしだ)、白石、甲浦(こううら)、三蟠(さんばん)、沖田、操陽(そうよう)、富山(とみやま)の10村、1954年財田(さいでん)町と高島、幡多(はた)、小串(こぐし)の3村、1969年西大寺市、1971年1月津高、一宮(いちのみや)、高松の3町、同年3月妹尾(せのお)、吉備(きび)の2町と福田村、4月上道(じょうとう)、足守(あしもり)の2町と興除(こうじょ)村、1975年藤田村、2005年(平成17)御津(みつ)、灘崎(なださき)の2町をそれぞれ編入。1996年中核市に移行。2007年1月瀬戸(せと)町、建部(たけべ)町を編入。2009年4月1日政令指定都市に移行、東区、中区、北区、南区がつくられた。面積789.95平方キロメートル(一部境界未定)、人口72万4691(2020)。

[由比浜省吾]

自然

市域北部は吉備(きび)高原南縁部で、最高点は標高550メートルを超える。旭(あさひ)川は吉備高原を深く下刻し、笹ヶ瀬(ささがせ)川、足守川はこの高原を水源として岡山平野に入る。市域東部は吉井(よしい)川下流のデルタである。低平な岡山平野の南西部は児島(こじま)湾干拓地であり、児島湖、児島湾の南側は児島半島で、分水界には南区の金甲山(きんこうざん)(403メートル)や貝殻(かいがら)山(289メートル)があり、この一帯は光南台(こうなんだい)とよばれる。市の中心部の小丘は小島が陸封されたもので、岡山の地名はこの小丘に由来する。気候は温暖寡雨な瀬戸内式の海岸性を示し、1981~2010年の年平均気温は16.2℃、年降水量は約1106ミリメートル。災害は比較的少なく、台風も激しいものは襲来しない。1934年の室戸(むろと)台風が今日までの最大の被害をもたらした。1946年の南海地震の際に旭川左岸の新田地帯に地盤沈下が生じたほか、2000年の鳥取県西部地震の際は軟弱地盤地域を中心に多くの被害が発生した。

[由比浜省吾]

歴史

市域には先史時代の遺跡が多く、初期稲作以来の遺跡の重層した北区の津島遺跡はその典型である。古墳時代に入ると、吉備文化の力を示すように、造山(つくりやま)古墳(北区。国史跡)をはじめ大規模な古墳が多い。条里遺構の残る地区も多く、備前(びぜん)の国府は旭川左岸の現中区国府市場にあった。古代の鹿田荘(しょう)のほかに中世にかけては足守荘、大井荘、生石(おほし)荘、妹尾荘、大安寺荘など著名な荘園が置かれた。鎌倉時代には広瀬郷内に市が開かれ、鹿田庄にも市場集落が発達し、金岡(かなおか)東庄の西大寺門前(東区)にも市場ができた。宇喜多直家(うきたなおいえ)とその子秀家(ひでいえ)のときに岡山(北区)に城下町が建設され、山陽道と旭川の付け替えが行われた。1600年(慶長5)に小早川氏、ついで池田氏の領地となるが、1632年(寛永9)鳥取から入封した池田氏が明治維新まで藩主となり、岡山は31万5200石の城下町として繁栄した。なお、西大寺は西大寺観音院の門前町で吉井川の川湊(みなと)、足守は木下氏、備中高松(北区)は花房氏の陣屋町、庭瀬(にわせ)(北区)は古い川湊であるとともに、戸川氏、板倉氏の陣屋町、吉備津(宮内)(北区)は吉備津神社の門前町、御津(北区)は岡山藩家老日置(ひき)氏の陣屋町としておこった所である。岡山藩は児島湾の干拓に力を注ぎ、17世紀前半には旭川右岸の福浜新田、米倉新田など、17世紀後半には右岸の松崎新田、金岡新田、倉田新田、幸島(こうじま)新田、沖新田がつくられ、19世紀には興除新田が干拓された。明治以後の大規模な干拓は藤田組とこれを継承した農林省により行われた。

[由比浜省吾]

産業

近世以来商業都市としての色彩が強く、現在も第三次産業の就業人口が大部分を占める。関西経済圏の一部を構成するが、新全国総合開発計画以来、東瀬戸圏の中核都市を目標に開発政策をとった。

 農業は水稲作が中心で、かつて全国的中心地であったイグサ栽培は激減した。モモ、ブドウは北部丘陵地域に、野菜は旭川谷底部や吉井川流域などに、花卉(かき)は金山寺(かなやまじ)、南区小串(こぐし)で栽培されている。とくにマスカットを中心とする温室ブドウは、北区の一宮、津高地区が主産地で、全国的シェアも大きい。工業は明治以後に岡山、西大寺で紡績業が近代工業の先駆けとなったが、今日では衰退している。2019年(令和1)の産業中分類別製造品出荷額等では、第1位が食料品製造業(13.9%)、第2位が生産用機械器具製造業(13.6%)、第3位が飲料・たばこ・飼料製造業(10.5%)、第4位が化学工業(9.0%)、第5位が印刷・同関連産業(8.1%)などとなっており、この5業種で全体の5割以上を占めている。概して中小企業が多く、市街地の西半、岡山港付近の岡南(こうなん)地区に立地している。北区の久米、東岡山および児島湖岸には中小企業団地がある。農機具製造は大正時代以降長い間全国的中心であったが、今日ではシェアは大きく低下している。商業は県下全域への卸売り機能をもっているが、しだいに大都市の卸商の進出、県下小売商の直接仕入れなどにより卸売業は停滞気味。西郊の中仙道(なかせんどう)に県の卸センターがあり、また瀬戸大橋完成に伴って北区大内田から都窪(つくぼ)郡早島町にかけて県総合流通センターがつくられた。小売業では中心商店街は歴史的な表町(おもてちょう)と新興の岡山駅前商店街が二大中心で、表町は専門店会発祥地であり、また第二次世界大戦後早く各バス会社の乗り入れるバスターミナルを設置したことで注目される。

[由比浜省吾]

交通

JRの山陽新幹線、山陽本線、宇野線、津山線、吉備線、赤穂(あこう)線の交点として、中国地方随一の交通要地であり、本四備讃線(瀬戸大橋線)も1988年開通した。国道は2号、30号、53号、180号、250号、429号の交点で、1993年に山陽自動車道、1997年岡山自動車道が開通。新岡山港(岡山港高島地区)からは小豆(しょうど)島行きフェリーがある。北区日応寺地区に建設されていた岡山新空港(岡山空港)は、1988年供用開始となった。羽田、那覇、新千歳、国外は韓国、上海、台湾、香港などと便がある。

[由比浜省吾]

文化・観光

旧制第六高等学校、岡山医大などを母体とする岡山大学を含め、9大学、4短期大学があり、北区の県立美術館、県立博物館、林原(はやしばら)一郎の収集品を展示する林原美術館、市立オリエント美術館、中区の夢二郷土美術館、北区の岡山シンフォニーホールなど文化施設が多い。サン・ノゼ(アメリカ)、サン・ホセ(コスタリカ)、プロブディフ(ブルガリア)、洛陽(らくよう)(中国)、富川(プチョン)(韓国)、新竹(シンチュー)(台湾)の各市と姉妹都市の縁組みをしている。北区の市中心部に後楽園(こうらくえん)(特別名勝)と岡山城(烏城(うじょう))、東郊中区に藩主池田家菩提(ぼだい)寺の曹源(そうげん)寺がある。市の西郊は「吉備路」とよばれ、造山古墳、吉備津神社(本殿及び拝殿は国宝)、吉備津彦神社などの史跡が多い。高松地区には高松城跡(国史跡)や最上稲荷(さいじょういなり)、足守地区には葦守八幡宮(あしもりはちまんぐう)、侍屋敷や藩主の庭園だった近水(おみず)園(以上北区)、西大寺には会陽(えよう)行事(国指定重要無形民俗文化財)で有名な西大寺観音院、児島半島には瀬戸内海国立公園の一部金甲山がある。

[由比浜省吾]

『『岡山市史』全9巻(1962~1968・岡山市)』『岩津政右衛門著『岡山城と城下町』(1972・日本文教出版)』『『岡山市百年史』全4巻(1989~1997・岡山市)』



岡山
こうざん / カンシャン

台湾南西部の町。高雄(たかお/カオシュン)の北20キロメートル、台南との中間に位置する。南12キロメートルに重要な海・空軍基地(左営(さえい))があり、南北交通の要所である。付近の大岡山(343メートル)は南台湾の仏教の聖地で、山中に超峰(ちょうほう)寺を中心とする多数の寺院があり、山麓(さんろく)に温泉(冷泉)が湧出(ゆうしゅつ)し、保養地となっている。東5キロメートルに阿公店(あこうてん)ダムがある。周辺の農村ではサトウキビが栽培され、製糖工場もある。また近年、南部工業地帯の発展に伴い、セメントをはじめ大小の工場が林立する。

[劉 進 慶]

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改訂新版 世界大百科事典 「岡山」の意味・わかりやすい解説

岡山[県] (おかやま)

基本情報
面積=7113.21km2(全国17位) 
人口(2010)=194万5276人(全国21位) 
人口密度(2010)=273.5人/km2(全国24位) 
市町村(2011.10)=15市10町2村 
県庁所在地=岡山市(人口=70万9584人) 
県花=モモ 
県木=アカマツ 
県民の鳥=キジ

中国地方南東部,山陽地方の東端を占める県。東は兵庫県,西は広島県,北は鳥取県,南は瀬戸内海を隔てて香川県と対する。

近世には美作国に津山藩,勝山藩,備前国に岡山藩,備中国に岡田,浅尾,足守,庭瀬,松山,新見の諸藩と天領などが置かれた。1868年(明治1)美作国に鶴田(たずた)藩(旧浜田藩),備中国に鴨方,生坂の旧岡山新田藩と成羽藩が立藩し,天領を管轄する倉敷県が置かれた。翌年勝山藩は真島藩,松山藩は高梁(たかはし)藩と改称した。71年廃藩置県をへて美作の諸県は北条県,備中の諸県は備後の福山県とともに深津県(翌年小田県と改称)に統合された。岡山県は75年小田県を,76年北条県を統合するとともに旧福山県を広島県に編入して,現在の県域となった。

鷲羽山(わしゆうざん)遺跡(倉敷市)は西日本で最初に発見された先土器文化の遺跡である。また黄島貝塚(瀬戸内市)はその層ごとに貝種の変化によって先土器時代から縄文早期押型文土器の時期にかけての自然環境の変遷を示す。やがて縄文人の生活の場は島々から内陸へ広がっていった。前・中期を主とする里木貝塚(倉敷市)など,多数の貝塚を伴う遺跡が知られている。晩期には県北山間部にまで遺跡の分布は及ぶが,津雲貝塚(笠岡市)のようにもちろん瀬戸内海沿いにも大遺跡は少なくない。津雲貝塚は後・晩期を中心とし,屈葬された人骨が多数発見され,この期の葬制を知るうえで貴重な資料を提供した。南方前池(みなみがたまえいけ)遺跡(赤磐市)ではやはり晩期の木の実を蓄えた貯蔵穴が発見されている。

 このころ県南の吉井川,旭川,高梁川の三大河川の河口に広大な沖積平野が形成されていき,人々はこうした環境の中で狩猟,漁労は続けながらもしだいに農耕生活に移行していった。津島遺跡(岡山市北区)では弥生前期の水田址が調査されている。やがて稲作と鉄器は内陸・山間部へと及ぶ。沼遺跡(津山市)は中期後葉の集落遺跡であるが,溝に囲まれた竪穴集落や家屋構造まで解明されている。百間川遺跡(岡山市中区)では弥生後期の水田址が明らかにされた。

 やがて,鉄器と稲作農業の生産力をバックに発展した地方豪族の権力は,都月坂(とつきざか)墳墓群(岡山市北区)や楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)のような各種の墳丘墓を出現させ,本格的な古墳発生に至る。前方後方墳の湯迫(ゆば)車塚古墳(岡山市中区),大型円墳の鶴山丸山古墳(備前市)はいずれも4世紀代前半で,花光寺山(けこうじやま)古墳(瀬戸内市),金蔵山(かなくらやま)古墳(岡山市中区),両宮山(りようぐうざん)古墳(赤磐市)などが続く。5世紀代になると吉備の豪族は大和朝廷に服属しその権威をかりることにより,ついに全長300m以上の巨大古墳を生むに至る。全長350mの造山(つくりやま)古墳(岡山市北区)などがその代表といってよい。月の輪古墳(久米郡美咲町)も山地におけるこの期の典型である。そして箭田(やだ)大塚古墳(倉敷市)などは6世紀代の巨石横穴式石室墳として重要。しかし,5世紀後半ごろから墳丘はしだいに小型化し,埴輪は失われ,横穴式石室が一般的となり,三須古墳群(総社市)などの群集墳が現れ,律令支配と仏教思想による火葬の風とがいよいよ強まって奈良時代に入る。

 鬼城(きのじよう)(総社市)は吉備の津を一望に収める標高400mの位置にある朝鮮式山城に似た塁状遺構である。このほか,総社市,岡山市周辺は古代文化の先進地であったので,国府址,国分寺址,それに足守(あしもり)庄址(岡山市北区)など荘園址も多い。
備前国 →備中国 →美作国

岡山県の地形は,北から順に,中国山地,内陸盆地,吉備高原岡山平野と東西に帯状に並んで低くなり,南端に児島半島がある。東から吉井川,旭川,高梁川の三大河川が中国山地に源を発してほぼ等間隔に南流し,吉備高原では深い谷を刻み,三大河川の河口に形成された三角州がつながって岡山平野が形成された。平野の南半は近世以降の干拓地である。中国山地は標高1000m余のなだらかな山地(最高峰は1345mの後山)で,木材,砂鉄などの産地となり,放牧にも利用されていた。中国山地と吉備高原の間には津山,勝山,新見などの山間盆地がほぼ東西に並び,古くから県北部の物資の集散地となり,地方文化の中心をなしてきた。吉備高原は標高200~600mの隆起準平原で,県の面積の2/3を占め,平たん面が多く,畑地,水田などに利用される。高原上にはところどころに浸食に抗して残った本宮山(吉備中央町),天神山,弥高山(ともに高梁市)などの孤立峰があり,また阿哲台(新見市)などの石灰岩台地もみられる。吉備高原の南に広がる岡山平野には児島半島など大小の山地や丘陵が点在し,かつての瀬戸内海の島々が三角州の発達で陸繫(りくけい)されたことを示している。海上には笠岡市沖,児島半島周辺,備前市沖に島嶼(とうしよ)が多い。岡山県は地震や台風などの災害も少なく,気候は温暖少雨の瀬戸内型で,岡山市の年平均気温は15℃,年平均降水量は約1150mm,丘陵の谷間には溜池が多く,また児島湾岸では奈良時代から製塩業が発達した。北にいくにしたがって内陸的特色を示し,中国山地では冬の降雪量も多く,年降水量は約2000mmと山陰型の気候に近づく。岡山県は地形的には西隣の広島県との境が明瞭でない所が多いが,古来備前・美作両国は東隣の播磨国との関係が密接で,現在でも経済的には関西経済圏との結びつきが強くなっている。

1891年開通の山陽鉄道(現在の山陽本線)をはじめとして岡山市を焦点とする中国鉄道(現,津山線,1898。現,吉備線,1904),宇野線(1910),伯備線(1928)が開通した。1903年から岡山~高松間にあった航路(のちJR)は10年宇野線の開通に伴って宇野~高松間となった。県北部を東西に結ぶ現在の芸備線は1930年全通し,昭和初期までに県内の主要交通網が整った。明治以降の岡山県の農業は,備前,備中で江戸後期まで盛んであった綿作の衰退に代わり児島湾岸一帯で水田の裏作としてのイグサ,吉備高原での果樹,タバコ等々の栽培が発展し,また児島湾の干拓が1898年以降藤田組の手で大規模に実施されるなど,大きく発展した。工業では児島(倉敷市)での江戸時代からの綿織物業の伝統をうけついで,1870-80年代に県南諸都市に近代紡績が起こり,特に88年開設の倉敷紡績が大正末から昭和初期にかけて人造絹糸工場を次々に設立して成長した。1873年の笠岡製糸場(のちの山陽製糸)に始まる製糸業は明治20年代には県北の町村でも起こり,第1次世界大戦ころには活況を呈したが,1929年の大恐慌以後衰退した。第1次大戦による輸送需要増加などに対応して1919年玉野市に造船業が立地し,37年株式会社玉造船所(現,三井造船)として独立するなど重工業化への動きもあったが,昭和初期までの工業は全体としては軽工業が主体であった。

第2次大戦直後には,食糧増産のための緊急開拓政策のもとで,児島湾干拓の早期完成のため工事が農林省直轄となったほか,県北の蒜山原(ひるぜんばら)(蒜山高原),日本原その他の開墾が行われた。旭川上流の真庭郡の北部は大山(だいせん)出雲特定地域に指定され,また1954年湯原ダムの完成により水没した農村の再建のため酪農を導入したのを契機に,この地方が集約酪農地域に指定された。しかし県は1953年ころから水島(倉敷市)を工業地域にするよう計画し,特に58年ころからは農業県から重工業県への転換をねらって,水島の石油化学・鉄鋼コンビナート実現のため,県の行政・財政をこれに注いだ。この結果,水島臨海工業地域のみで県の工業出荷額(1981年,5兆9551億円)の過半を示すに至った。しかし,水島地区では重化学工業の発展に伴って公害も激化し,1974年には三菱石油の石油流出による瀬戸内海東半の汚染などの大事故も発生した。公害反対の世論に押されて,県は臨海コンビナートの拡大を中止し,むしろ内陸型産業を充実する方向に転じた。1995年現在の水島臨海工業地域の工業出荷額は県全体(6兆8634億円)の43%となった。津山盆地,新見盆地などに中国自動車道が開通(1983全通)したのを契機に,工業用地が造成され,製材,音響機器,薬品など各種企業の立地が見られ,その代表は勝央中核工業団地(津山市)である。

 これに対して吉備高原や中国山地の諸地域は依然として第1次産業を基盤としており,過疎地域がいたるところに出現している。経済的にはこのように県内での南北格差が大きい。岡山・倉敷両市における著しい人口増加,工業化に対して,農業,農村は大きな打撃を受けた。労働力が他産業に流出し,最盛期の1964年には全国の半分を生産していたイグサは収穫までに手間のかかることもあって81年にはその5%以下に激減した。大正末から昭和初めに本格化し,岡山県の代表的産物であったモモ,ブドウも労力不足に悩み,マスカットなど温室ブドウは依然として全国シェアが常に9割以上と高いものの,モモは昭和30年代の最盛期に比べると減退気味である。山村部に至るまで人口の都市流出あるいは都市的職業の増加のため,農業は現状維持にとどまり,大きい発展は望めない。ただ,蒜山原がダイコン栽培と集約酪農で安定したこと,中・北部農村で野菜生産に努力していることなどが注目される。

 岡山市は山陽新幹線が1972年に開通,75年に博多まで延長されて交通の要衝としての地位を高め,1960年26万人であった人口を周辺の合併もあわせて70年46万人,80年54万人,90年に59万人,95年に61.6万人と着実に伸ばしてきた。新全国総合開発計画では,東瀬戸圏の中核都市となることを企図し,1978年着工の本州四国連絡橋児島~坂出ルート(通称,瀬戸大橋)が88年開通し,早島町に問屋・倉庫団地や展示館としてのコンベックス岡山を含む県総合流通センターが建設された。岡山市が県の行政・経済・文化の中枢の位置を高め,倉敷市がこれに次ぎ,倉敷地区には文化施設が多く,水島地区では重化学工業,児島地区は繊維産業が盛んである。また玉野市は造船の町,総社市は内陸工業と住宅の町としての性格をもってきた。この背後の吉備路風土記の丘,すなわち岡山市西部から総社市東部にかけては,備中国分寺跡(総社市),備中一宮の吉備津神社,造山古墳(岡山市),作山古墳(総社市)など古代吉備の遺跡,史跡が豊富に残り,また岡山市の後楽園,備前市の閑谷(しずたに)学校など近世の文化を伝える史跡も多く,都市化の波は田園地帯を蚕食しつつあるものの,中都市の良さを残している。

県内での自然条件,歴史的背景に現在の経済的結びつきを加えて県域は備南,美作および備北の3地域に区分される。

(1)備南地域 岡山県の南半を占め,面積で約40%,人口で約80%を有する。古代からの海・陸交通上の要路で,吉備文化の中心地であった。中世から備前刀,備前焼など手工業が起こり,近世には城下町岡山を頂点として多くの陣屋町があった。また干拓事業は近世から明治期を経て第2次世界大戦後まで続き,水稲はもちろん,イグサなどの商品作物が栽培されて,高い農業生産力を示した。工業は近世起源の繊維工業があり,明治期に近代工業として発展し,大正期には重化学工業を加え,戦後に水島臨海工業地域が形成されて,岡山県の工業生産の43%(1995)を占めている。工業化に伴う都市化の進行も顕著で,岡山・倉敷両市で最も激しく,その余波が近隣に波及した。これらのかげに水産業は衰退傾向にある。山陽新幹線,瀬戸大橋,中国自動車道,山陽自動車道,米子自動車道など新しい幹線交通路が次々と設置され,88年には岡山空港が開港,93年には大型ジェット機の就航が可能となり,山陽の代表的地域の一つとなっている。ただし,吉備高原の部分は過疎現象が著しい。民俗芸能では笠岡市白石島の白石踊が重要無形民俗文化財に指定され,伝統行事としては西大寺観音院の会陽(えよう)がある。

(2)美作地域 古くより美作国としてまとまりがあった。吉井川とその支流によって開析された津山盆地が大部分を占め,西部が旭川上流域になる。近世には諸往還のほか,河川交通が発達し,城下町津山をはじめとして河港として栄えた町が多い。工業は大正期以来の製糸業以外大きなものがなかったが,第2次大戦以後に内陸型工業が津山市に立地し,中国自動車道開通がその勢いを強めた。鉱業では柵原(やなはら)町(現,美咲町)にある硫化鉄の柵原鉱山,鳥取県境の人形峠付近でのウラン鉱山があったが,いずれも採鉱は終わった。盆地底以外は山地・丘陵で過疎化の進んだ農山村であるが,蒜山原などのように特色ある農業や牧畜も見られる。蒜山地方の民俗芸能に大宮踊がある。

(3)備北地域 岡山県北西部,高梁川の中・上流域を占め,新見市と高梁市が地域的中心である。県内で著しく過疎化の進んだ所である。かつて〈たたら〉による製鉄,次いで牛産地として名をあげたが,現在の主要工業は阿哲台の石灰岩関連工業程度である。民俗芸能はよく保存され,備中地方の備中神楽が重要無形民俗文化財に指定されている。
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岡山[市] (おかやま)

岡山県南部の市で,県庁所在都市。2005年3月旧岡山市が灘崎(なださき)町と御津(みつ)町を,さらに07年1月瀬戸(せと)町と建部(たけべ)町を編入して成立した。09年4月政令指定都市となり,北区,中区,東区,南区の4区を設置。人口70万9584(2010)。

岡山市中部の旧市で,県庁所在都市。岡山平野の中央部にある県の政治,経済,文化,交通の中心地。1889年市制。以後しだいに市域を拡大し,1969年に西大寺市を,71年に津高,一宮,高松,足守,吉備,妹尾,上道の7町と福田,興除の2村を,75年には藤田村を編入した結果,児島湾干拓地と児島湖の大部分も市域に含まれることになった。人口62万6642(2000)。周辺の開発は古く,弥生時代の津島遺跡のほか平地部北半に条里遺構があり,また造山(つくりやま)古墳(史),車塚古墳金蔵山(かなくらやま)古墳など大小の古墳も多く見られ,備前国府は旭川東岸の国府市場にあった。戦国時代に宇喜多直家が旭川沿いの丘陵に築城したのが都市形成の始まりで,その後,小早川氏,池田氏と交代したが,安定したのは1632年(寛永9)に池田光政が鳥取から入封して以来で,明治維新まで備前31万5000石の城下として繁栄した。廃藩置県を経て1876年に現在の岡山県域が成立すると,岡山は備前のみでなく,備中,美作を含む全域の中心となった。1945年6月の空襲で市街地の大半が被災し,烏城(うじよう)(岡山城,戦後に再建)はじめ城下町のおもかげはなくなったが後楽園は江戸時代を代表する回遊式庭園として残っている。中心商店街は江戸時代以来の表町があるが,72年山陽新幹線が開通し,JRの山陽本線,宇野線,津山線の分岐点にあたり,赤穂線,吉備線,四国と連絡する瀬戸大橋線の起点でもある。そのため岡山駅前地区が表町をしのぐ商業地区になった。なお,国道2号線のほか山陽自動車道,岡山自動車道がある。南部は児島湾干拓地の一部で,岡南(こうなん)工業地域をなし,食品,繊維のほか電気,金属,機械などの工場が進出している。西大寺は会陽(えよう)で有名な観音院の門前町,港町として中世から栄えた商業地である。周辺は豊かな農業地域で,一宮や津高は温室ブドウ(マスカット)の主産地であるが,宅地化が進んでいる。高松は造山古墳,高松城跡など古代以来の史跡に富み,吉備津の吉備津神社,吉備津彦神社,備中高松の最上稲荷がある。
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備前国岡山藩の城下町で旭川下流の沖積平野を町域とする。古代には三野,広瀬,出石(いずし)の3郷の名が《和名抄》にみえ,藤原氏の殿下渡領として知られる鹿田(かた)荘も立地した。岡山城址の周辺にある3丘(岡山,石山,天神山)の一つの岡山に地名は由来するといわれる。大永年間(1521-28)金光氏が在城していたが,1570年(元亀1)宇喜多直家は城主金光宗高を謀殺して岡山城地を略取し,73年岡山城を改築して面目を一新し,同年秋に上道郡沼城よりここに移った。岡山の地は吉備平野の中心に位し,旭川と児島湾との水利の便に恵まれるなど,領国都市としての諸条件を具備していた。宇喜多直家・秀家父子2代の間に,近世城下町としての原型が作られた。すなわち旭川の河道付け替えと城郭の大改築,山陽道を南下させて城下を貫通させるなど,中世的な六斎市を廃止して本格的な町づくりをし,家臣団の城下集住を図るとともに,福岡,西大寺,片上などの領内要地より有力な商人を呼び寄せて,50万石大名の城下町として整備した。次いで入封した小早川秀秋は,城郭を補修し外堀をつくったが在任1年半で断絶した。1603年(慶長8)入封した31万5000石の岡山藩主池田氏によって,城下町の建設は逐次完成された。すなわち,城郭を中心に第一郭は大身の侍屋敷,第二郭は中心的な商業区とその四囲にある中身の侍屋敷,郭外に寺社および一般町屋(おもに職人町)が並び,その外側に小身の侍屋敷,組屋敷が散在し,全体的に碁盤目型の市街地を形成していった。56年(明暦2)町会所ができ,町奉行(1~3人),町目付(2人),同心(6人)などの支配下に,町屋62町は上中下の3組に区別され,惣年寄(3人),船年寄(1人)および各町に名主,年寄などの諸役人が置かれた。1707年(宝永4)現在の人口構成をみると,藩家臣団(家族,家来,奉公人を含む)の総計は2万1904人(男1万3497人,女8407人),町方人口は3万0635人(男1万5727人,女1万4908人)で,商人約53%,職人約17%,奉公人約16%,その他で,町方戸数は7735軒(家持2663,借屋5072)を数えた。当地は岡山藩の政治,経済,交通,文化などの中核的な機能をもち,特権的な御用町人や独占的な株仲間の結成などによって,藩権力と結託して領国経済を掌握してきたが,寛政年間(1789-1801)になると在町を中心とした商工業の発展の結果,城下と在町との対抗関係が問題視されるに至った。維新後は岡山県庁の所在地として,城下町当時の機能は基本的には保持されつつ,経済・交通とくに教育・文化の面では著しく近代的な変容をとげていった。
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岡山市東端の旧町。旧赤磐(あかいわ)郡所属。人口1万4902(2005)。岡山平野の北東部に位置し,東部を吉井川が南流する。吉井川右岸の万富(まんとみ)から観音寺にかけて北東~南西の方向に断層谷が発達している。中心集落の瀬戸はJR山陽本線の瀬戸駅前に発達した駅前集落で,郡の行政,商業の中心をなす。農業が主産業で,米作やモモ,ブドウの栽培が行われる。食料品の工場があり,隣接する旧岡山市への通勤者も多い。万富付近には東大寺瓦窯跡(史)がある。

岡山市北端部の旧町。旧御津郡所属。人口6524(2005)。吉備高原を流れる旭川中流域に位置する。中心集落の福渡(ふくわたり)は旭川舟運と津山街道(岡山~津山)が合する水陸交通の要衝の地で,近世は宿場町,市場町として発達した。農業が基幹産業で,谷底平野を中心に米麦作,タバコ,ブドウ,マツタケ,抑制野菜の栽培などが行われる。旭川ダムの南端にあたる鶴田(たずた)は長州征伐で長州軍に追われた浜田藩松平氏が,1867年(慶応3)鶴田藩を設立した地。JR津山線,国道53号線が通じる。

岡山市南西端の旧町。旧児島郡所属。人口1万5823(2000)。旧岡山市と倉敷,玉野両市に囲まれた児島湖西岸の町で,町域は児島山塊の北斜面と岡山平野南端に当たる干拓地からなる。かつては山すそを海岸線として児島湾に臨んだ漁村であったが,明治中期以降の藤田組による干拓やそれを引き継いだ第2次大戦後の農林省直営の干拓事業によって県下有数の農業地帯となり,米,ビール麦,施設園芸(促成ナス)の生産を中心に大規模な機械化農業が行われる。JR宇野線,国道30号線が通じ,旧岡山市などの隣接する都市部への通勤者も多い。

岡山市北部の旧町。旧御津郡所属。人口1万0214(2000)。旭川中流域に位置し,旧岡山市の北に隣接する。旭川と宇甘(うかい)/(うかん)川の合流点にある中心集落の金川(かながわ)は,南北朝時代に備前守護代松田氏が築いた玉松城の城下町で,江戸時代には岡山藩の家老日置氏の陣屋が置かれ,また旭川水運の河港,津山街道の宿場町として栄えた。中央部をJR津山線,国道53号線が通る。米作を中心にブドウ,シイタケなどの栽培が行われ,県最大の椎茸合同組合がある。宇甘川沿いではかつて製紙が行われ,紙工(しとり)の字名が残る。日蓮宗不受不施派の本山妙覚寺がある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本歴史地名大系 「岡山」の解説

岡山
おかやま

[現在地名]和歌山市真砂丁一―二丁目

もと吹上ふきあげ浜の汀線に並行して発達した砂丘の一部であったが、和歌山城下建設に伴い周辺部は大きく変貌した。北端は大きく掘下げられて三年さんねん坂の切通しが造られてその北に城郭ができ、南側はてら町・車坂くるまざかなどの横通りが開かれ、東側はおかたにやぶノ町などの縦通りが開かれて武家屋敷が軒を並べた。砂丘の名残である岡山はそのまま残り、旧海岸林もわずかではあるが残り、岡山の根上り松群として県の史跡となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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