仁木氏 (にきうじ)
三河出身の中世武家。〈にっき〉ともいう。足利氏の庶流。足利義康の子義清の孫実国が三河国額田(ぬかた)郡仁木郷(現,愛知県岡崎市仁木)に住し,仁木太郎と称したのに始まる。《吾妻鏡》に〈日記三郎〉〈日記五郎〉の名がみえ,足利氏より将軍へ献ずる馬を引く役目などを務めていることから,鎌倉期には宗家足利氏の被官なみの扱いを受けていたことがわかる。室町幕府では足利一門が守護に補されることが多く,仁木氏からも多数の守護を出した。最も栄えたのは南北朝期の頼章・義長兄弟の時期で,とくに頼章は足利将軍家の執事として幕政に重きをなした。以降,頼章の子頼夏が侍所頭人,丹波守護に補されるなど畿内近国の守護となった者が少なくないし,室町中期には将軍に直接に仕える奉公衆を出すなど,幕政にも軽視できない地位を占めた。しかし応仁の乱で一族が相争ったこともあって戦国期以降は衰退。ちなみに鶴岡社務・大僧正頼仲は頼章の叔父。
執筆者:森 茂暁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
仁木氏
にきうじ
「にっき」とも読む。足利(あしかが)一族中の大族で、南北朝時代の活躍が目覚ましい守護大名。足利義康(よしやす)の曽孫(そうそん)実国(さねくに)が、鎌倉中期三河国額田(ぬかた)郡仁木郷(岡崎市仁木(にっき)町)に住み、仁木太郎と称したのに始まる。実国から6代目にあたる頼章(よりあき)、義長(よしなが)の兄弟は足利尊氏(たかうじ)に従って軍功があり、1351年(正平6・観応2)頼章は尊氏の執事となり、尊氏の没年(1358)まで在職した。兄弟が守護を務めた国は丹波(たんば)、武蔵(むさし)(以上頼章)、遠江(とおとうみ)、伊勢(いせ)、伊賀、三河(以上義長)などである。1360年(正平15・延文5)義長は細川清氏(ほそかわきようじ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)らと対立、結局伊勢に退き、のち幕府に帰順した。子孫は伊勢、伊賀の守護となったが、応仁(おうにん)の乱(1467~77)には一族が分裂し、しだいに衰微した。のち美作国(みまさかのくに)(岡山県)などにも土着し、また江戸幕臣や毛利(もうり)藩士となった者もいる。
[田辺久子]
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仁木氏
にきうじ
足利一族。「にっきうじ」とも読む。足利義康の曾孫実国が,三河国額田 (ぬかた) 郡仁木村に住んだのに始る。南北朝時代,頼章,義長が足利尊氏,義詮の2将軍を助け,執事や侍所頭人,三河,伊勢,伊賀などの守護となり,広域にわたる勢力を有した。室町時代中期以降,衰退。
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世界大百科事典(旧版)内の仁木氏の言及
【仁木氏】より
…《吾妻鏡》に〈日記三郎〉〈日記五郎〉の名がみえ,足利氏より将軍へ献ずる馬を引く役目などを務めていることから,鎌倉期には宗家足利氏の被官なみの扱いを受けていたことがわかる。室町幕府では足利一門が守護に補されることが多く,仁木氏からも多数の守護を出した。最も栄えたのは南北朝期の頼章・義長兄弟の時期で,とくに頼章は足利将軍家の執事として幕政に重きをなした。…
【丹波国】より
…頼章没後は猶子の頼夏が守護を継承したが,60年(正平15∥延文5)10月には頼夏も罷免,甥の仁木義尹が守護となっている。このように仁木氏は通算19年間当国守護に在職したが,山名氏の侵入によって更迭はなはだしかったため,国人の被官化,闕所地把握や荘園の接収など領国経営を十分に行えなかった。 63年(正平18∥貞治2)9月の山名時氏の幕府帰参は山陰道の守護配置を一変し,時氏の旧主足利直冬が丹波・丹後の守護に補任された。…
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