足利義康(読み)あしかがよしやす

日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義康」の意味・わかりやすい解説

足利義康
あしかがよしやす
(?―1157)

平安後期武将源義家(よしいえ)の孫、義国(よしくに)の子。母は信濃守(しなののかみ)源有房の娘。父から下野(しもつけ)国(栃木県)足利庄(しょう)を譲られ、ここを本拠として足利氏を称し、その祖となる。1142年(康治1)鳥羽(とば)上皇が建立した安楽寿院(あんらくじゅいん)に足利庄を寄進、同庄の下司となる。在京して鳥羽上皇に仕え、北面武士となり、右衛門尉(じょう)、検非違使(けびいし)に任ぜられた。1156年(保元1)の保元(ほうげん)の乱には後白河(ごしらかわ)天皇方として活躍、功により昇殿を許され、左衛門尉、蔵人(くろうど)、従(じゅ)五位下となった。妻は熱田大宮司範忠(あつただいぐうじのりただ)の娘(源義朝(よしとも)の妻の姪(めい))。保元2年5月29日死去。

[上横手雅敬]

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義康」の意味・わかりやすい解説

足利義康 (あしかがよしやす)
生没年:?-1157(保元2)

平安後期の武将。源義家の孫。義国の子。新田義重の弟。室は藤原季範の長男範忠の女。下野国足利を本拠とし藤原姓足利氏と所領を争った。鳥羽上皇が建立した安楽寿院へ足利荘を寄進し,在京して父とともに北面の武士として上皇に仕え,保元の乱(1156)では後白河天皇方に属し義朝らとともに活躍,この功により蔵人となり昇殿を許され陸奥守に任官した。
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朝日日本歴史人物事典 「足利義康」の解説

足利義康

没年:保元2.5.29(1157.7.7)
生年:生年不詳
平安末期の武士。源義国の子。母は源有房の娘という。鳥羽上皇の北面(院の御所の北面に祗候)から蔵人,検非違使に任ぜられ,父が下野(栃木県)に籠居したのちも京で活動し,保元1(1156)年の保元の乱では後白河天皇方にあって平清盛,源義朝に次ぐ軍勢を率いて勲功をあげ,平家弘らを捕らえ大江山にて斬首。これにより昇殿を許され,五位の検非違使となる。しかし間もなく死去したため平治の乱には加わっていない。所領の下野国足利荘は鳥羽上皇が建立した安楽寿院に康治1(1142)年に寄進されており,近くの簗田御厨(足利市)をも得て,子孫はこの一帯に根拠地を占めて繁栄した。

(五味文彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義康」の意味・わかりやすい解説

足利義康
あしかがよしやす

[生]大治2(1127)
[没]保元2(1157).5.29.
平安時代後期の武将。足利氏の祖。源義家の孫。義国の子。鳥羽上皇の北面の武士。足利陸奥判官と称せられ,保元の乱の功により昇殿を許された。 (→保元・平治の乱 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義康」の解説

足利義康 あしかが-よしやす

?-1157 平安時代後期の武将。
源義国の子。父からゆずられた下野(しもつけ)(栃木県)足利荘(しょう)を本拠とし,足利氏の祖となった。鳥羽(とば)上皇につかえて北面の武士となり,検非違使(けびいし)に任じられる。保元(ほうげん)の乱には後白河天皇方で活躍,その功により昇殿をゆるされた。保元2年5月29日死去。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義康」の解説

足利義康
あしかがよしやす

?〜1157
平安後期の武将。足利氏の祖
源義家の孫。鳥羽上皇に仕えて北面の武士となり,検非違使 (けびいし) ・陸奥守に栄進。保元の乱(1156)には後白河天皇方として活躍し,昇殿も許され,足利氏隆盛の基礎を開いた。

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