日本歴史地名大系 「今富村」の解説 今富村いまどみむら 千葉県:市原市今富村[現在地名]市原市今富宮原(みやばら)村の北西にあり、北部を養老(ようろう)川が流れる。海上(うなかみ)郡の郡寺と想定される今富廃寺がある。久留里(くるり)道の継立場で、渡船場が置かれた。中世は今富保とみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五一五石。元禄郷帳では高五〇〇石余で幕末までほぼ同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では今留村とあり、家数九二で、旗本松下領とあるが、同領は慶長一〇年(一六〇五)以来とされる。文政一〇年(一八二七)より鶴牧藩領で幕末に至る。正徳五年(一七一五)の人数五三三、馬一四(千葉家文書、以下断りのない限り同文書)。延享二年(一七四五)の村明細帳によれば、田五九町一反余・畑三五町六反余(うち屋敷一町七反余)、家数八七のうち水呑二一、人数五一二、牡馬四三、年貢米は青柳(あおやぎ)・今津(いまづ)・姉崎(あねがさき)三ヵ所より津出しした。寺四・堂四・社一三。明治元年(一八六八)には家数九二・人数三六五で、屋根師四、大工・木挽・桶屋・座頭・醤油造・酒商万商・煮売酒屋・髪結・農間道具渡世・旅籠屋各一。享保一四年(一七二九)領主林五七町二反余が百姓五〇人の割山となり、名主弥五左衛門は一四町九反余を所持したほか、五町未満―四町は百姓代一人、四町未満―三町は組頭一人、三町未満―二町は組頭二人を含む四人で、一町未満は三七人。安永二年(一七七三)当村百姓が椎津(しいづ)村の山林に駄賃稼に行き、山元に断らず薪を運び出そうとして盗人扱いされ、組頭が山主に詫びを入れ酒代一両で示談となっている。 今富村いまとみむら 熊本県:天草郡河浦町今富村[現在地名]河浦町今富北は高浜(たかはま)村(現天草町)、東は壱町田(いつちようだ)村に接し、今富川の東流域にある。今富川は南流して途中西河内(にしかわち)川と合流し、羊角(ようかく)湾の入江の一つ崎津(さきつ)湾に注ぐ。キリシタン信仰が根強く続いた地で、元和三年(一六一七)のイエズス会士コーロス徴収文書(「近世初期日本関係南蛮史料の研究」所収)に、高浜・大江(おおえ)(現天草町)、崎津の信徒代表と並び、「今福」の大屋敷彦三郎の署名がみえる。正保郷帳に村名がみえ、高四〇三石八斗余とある。同郷帳に高七八石余と記される小島(こじま)村は元禄国絵図に当村の枝郷とあり、高三一石余。 今富村いまどみむら 山口県:厚狭郡楠町今富村[現在地名]楠町大字今富万倉(まぐら)盆地から有帆(ありほ)川の支流今富川をさかのぼった山間の小村。東は芦河内(あしがわち)、南は矢矯(やはぎ)、西と北は万倉(まぐら)の各村と接する。萩藩領で舟木宰判に属するが、すべて萩藩家老国司家の給領地。慶長五年(一六〇〇)の検地帳、同一五年の検地帳ともに今富とあり、芦河内・矢矯と合石で記載される(→矢矯村)。寛永一四年(一六三七)の郡夫付立(「注進案」所収)では今富村は一一六石となっている。「地下上申」によれば、今富は芦河内とともに矢矯村に含まれている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by