今石動町(読み)いまいするぎまち

日本歴史地名大系 「今石動町」の解説

今石動町
いまいするぎまち

現小矢部市のほぼ中央、小矢部川左岸の平地白馬はくば(城山)とそれに連なる山々の山裾に立地。もとは葭原よしはら(吉原)池田いけだとよばれた寒村であったが、天正一〇年(一五八二)前田利家が能登石動せきどう天平てんびよう(現石川県鹿島町)と和睦した際に人質代りに差出された伊須流岐比古いするぎひこ神社(現同上)の本地仏(虚空蔵菩薩)を、弟秀継が木舟きぶね(現福岡町)に入る前に、葭原愛宕権現(現愛宕神社)へ移祀した縁由から今石動と改称したという(富山県史)。同一四年からは今石動城の城下町として、廃城後は北陸街道宿場町として発展した。

〔町の成立〕

天正一三年木舟城が地震で陥没、城主の前田秀継が圧死したため、後継の利秀(秀継息)はいったん同城を修復したが、翌一四年拠点を今石動城に移し、礪波となみ射水いみず両郡で四万石を領した。今石動城は天正一三年前田利家が木舟城に拠る佐々成政勢攻略のため白馬山上に築いた山城であった。利秀は入城後すぐ、城の南東麓一帯に城下町を建設し、木舟から本行ほんぎよう寺・等源とうげん寺、矢波やなみから永伝えいでん寺を招致し、また木舟城下から鍛冶・紺屋・細工などの諸職人や町人をも呼寄せた。のち当町の町年寄を勤めた紅屋の由緒書(千葉家文書)によれば、紺屋の祖は同一四年木舟から移住し惣兵衛そうべえ(のち下飯田町)の草分になったという。同年には今石動町の町肝煎が任命されており、利秀時代に鍛冶かじ町・紺屋こんや町など、のちの本町に相当する当町の基幹が形成されたと考えられる。

しかし文禄二年(一五九三)利秀が没し、以降城主不在のまま城代の篠島織部清了が城下の屋敷にあって名代を勤めた。篠島氏は寛永一〇年(一六三三)加賀藩の今石動町奉行となり、礪波射水両郡の郡奉行をも兼ねた。同一四年からは城端じようはな町、同一七年から氷見ひみ町をも支配した。承応二年(一六五三)に郡奉行が分離され三ヵ町支配のみとなったが、宝永七年(一七一〇)まで当地にあって民政をつかさどった。このため当町は礪波地方の政治・経済の中核地として栄えた。今石動町奉行は篠島氏の後は藩士のなかから任命され、平時は金沢城下におり、当町には与力を常住させ、年に数回管轄の三ヵ町を視察した(小矢部市史)。なお慶長一〇年(一六〇五)には今石動町肝煎に人足伝馬の取締りが命じられ(「伝馬人足申渡書」小沢家文書)、宿場町の機能が加わり、寛永一九年には福町ふくまち村に小矢部御蔵が、承応三年には給人米を扱う蔵宿が設置され、年貢米の大集散地となった。

〔支配と構成〕

今石動町奉行支配の町方で、本町一五・散町一一の町人町山畠やまばたけ(畑地)小矢部島おやべじま(田地)からなり、ほかに古国府勝興ふるこしようこう寺支坊とその門前、その他の寺社、藩役所(馬場)と役人居住の足軽あしがる町があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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