代村(読み)ほおじろむら

日本歴史地名大系 「代村」の解説

代村
ほおじろむら

[現在地名]上野市喰代

喰代郷の東北部に位置し、東は山田郡広瀬ひろせ(現阿山郡大山田村)に接する。久米くめ川の源流妹瀬いもせ川は東山中に発し西流、岩坂いわさか川は中部山地に発して北流し、出後いずご(現大山田村)を経て山田盆地に入り、服部はつとり川に合流する。集落は両河川の流域、ことに岩坂川に沿って開け、川の東山麓の高猿たかざる古墳群、川西の高座こうざに二基の古墳がある。

「日本霊異記」中巻第一五に、「高橋連東人は伊賀国山田郡はみしろの里の人なりき。大きに富み財に饒なりき」の書出しで、高橋連が郡内「御谷みたにの里」の乞食を有縁の師に迎えて亡母の法要を営んだが、乞食の夢想から、母が生前の罪障により牝牛となったことを知ったという話がある。「三宝絵詞」「今昔物語」にも載り、「代」は喰代をさすといわれている。御谷は現阿山郡大山田おおやまだ村で、三谷みたに遺跡と南西の歌野うたの遺跡は奈良―平安期に比定される住居跡で、三谷遺跡からはふいごの羽口や鉄が出土している。

代村
たらのきだいむら

[現在地名]櫛引町

黒川くろかわ村の東、月山麓の丘陵地に位置する。近世の地方文書では多く代と記したが、郷帳類では木代の表記が多い。地名はタラノキの群生地であったことに由来すると伝える。平家の落人村との伝承もあり、小文治楯こぶんじだて喜助楯きすけだて渡部楯わたなべだてなどの地名も残るが、明和四年(一七六七)の黒川村用水願書(櫛引町史)によれば、同村の者が田地を開いたのが始まりといい、寛永元年(一六二四)検地帳代区有文書)でも「黒川村之内たらの木代」とみえる。

代村
しろむら

[現在地名]五箇村代

北方きたがた村の北に位置し、西部は海に臨む。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田六五石余・五町五反余、畑五石余・一町五反余、ほかに新田畑六石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)八匁・漁請役四匁・山手塩一〇〇俵役七〇匁・和布二〇束役四匁・核苧二八〇目役七分・牛皮一枚役丁銀二匁五分。家数二〇(百姓一七・間脇三)のうち御役目屋敷八、男四九・女五六、神主・山伏各一、牛二二・馬一二。北谷きただに明神八幡宮がある。

代村
だいむら

[現在地名]熊谷市代

大里郡おし領に所属(風土記稿)。台とも記す。荒川の沖積扇状地上に位置し、北は中条ちゆうじよう(玉井堰の分流)を境に奈良なら新田、南は原島はらじま村。正保二年(一六四五)侍医安倍(安部)領となり幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・改革組合取調書など)。田園簿では田方一五〇石余・畑方四四九石余。「風土記稿」によると家数九〇余、用水は玉井たまのい堰を利用。元禄二年(一六八九)の熊谷宿助郷証文(「海駅門」熊谷市立図書館蔵)に台村とみえ、大助郷勤高は六〇〇石であった。

代村
だいむら

[現在地名]三重町奥畑おくばた

板屋いたや村の南、北西流する奥畑川の流域にある。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。「豊後国志」に代とみえる。ただし正保・元禄・天保の各郷帳に村名はみえず、旧高旧領取調帳では高五五石余。安永七年(一七七八)には中津留組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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