代村
ほおじろむら
[現在地名]上野市喰代
喰代郷の東北部に位置し、東は山田郡広瀬村(現阿山郡大山田村)に接する。久米川の源流妹瀬川は東山中に発し西流、岩坂川は中部山地に発して北流し、出後村(現大山田村)を経て山田盆地に入り、服部川に合流する。集落は両河川の流域、ことに岩坂川に沿って開け、川の東山麓の高猿古墳群、川西の高座に二基の古墳がある。
「日本霊異記」中巻第一五に、「高橋連東人は伊賀国山田郡
代の里の人なりき。大きに富み財に饒なりき」の書出しで、高橋連が郡内「御谷の里」の乞食を有縁の師に迎えて亡母の法要を営んだが、乞食の夢想から、母が生前の罪障により牝牛となったことを知ったという話がある。「三宝絵詞」「今昔物語」にも載り、「
代」は喰代をさすといわれている。御谷は現阿山郡大山田村で、三谷遺跡と南西の歌野遺跡は奈良―平安期に比定される住居跡で、三谷遺跡からは鞴の羽口や鉄
が出土している。
代村
しろむら
[現在地名]五箇村代
北方村の北に位置し、西部は海に臨む。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田六五石余・五町五反余、畑五石余・一町五反余、ほかに新田畑六石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)八匁・漁請役四匁・山手塩一〇〇俵役七〇匁・和布二〇束役四匁・核苧二八〇目役七分・牛皮一枚役丁銀二匁五分。家数二〇(百姓一七・間脇三)のうち御役目屋敷八、男四九・女五六、神主・山伏各一、牛二二・馬一二。北谷明神・八幡宮がある。
代村
だいむら
[現在地名]熊谷市代
大里郡忍領に所属(風土記稿)。台とも記す。荒川の沖積扇状地上に位置し、北は中条堀(玉井堰の分流)を境に奈良新田、南は原島村。正保二年(一六四五)侍医安倍(安部)領となり幕末に至る(「寛政重修諸家譜」・改革組合取調書など)。田園簿では田方一五〇石余・畑方四四九石余。「風土記稿」によると家数九〇余、用水は玉井堰を利用。元禄二年(一六八九)の熊谷宿助郷証文(「海駅門」熊谷市立図書館蔵)に台村とみえ、大助郷勤高は六〇〇石であった。
代村
だいむら
[現在地名]三重町奥畑 代
板屋村の南、北西流する奥畑川の流域にある。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。「豊後国志」に代とみえる。ただし正保・元禄・天保の各郷帳に村名はみえず、旧高旧領取調帳では高五五石余。安永七年(一七七八)には中津留組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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