伊万里町(読み)いまりまち

日本歴史地名大系 「伊万里町」の解説

伊万里町
いまりまち

[現在地名]伊万里市伊万里町いまりちよう甲・同乙

伊万里川の河口に立地する。伊万里津ともよばれた。今利(司馬江漢「江漢西遊日記」・古河古松軒「西遊雑記」)、今里(西遊雑記)とも記される。

建保六年(一二一八)八月の源披譲状案(伊万里文書)には「伊万里浦」とある。中世末の松浦源氏伊万里氏の居城跡は当地のじよう山である。天正四年(一五七六)竜造寺隆信に攻略されたがまもなく鍋島氏の支配となる。文禄・慶長の役には鍋島直茂配下は「伊万里津」から出帆、乗艦国吉丸は伊万里の有田ありた(現元町)の稲荷社の楠の木から解纜したという。

慶長絵図では「伊万里」と書かれ、正保絵図には「伊万里町」とし、海の部分に「伊万里津は遠浅、舟大小五六十艘程留る」と記入されている。また慶安二年(一六四九)肥前一国道則帳によると「伊万里津、遠干潟船繋吉、潮満ニ船入七八町沖ノ方ヘ船大小五六十艘程繋、北風浪高」とある。

佐賀藩が伊万里心遣役という役人を任命したのが元禄三年(一六九〇)、この頃から津が本格的に形成されたと思われる。

貞享四年(一六八七)改の郷村帳および天保一〇年(一八三九)の郷村帳には、しん町・なか町・たて町・しも町・土井どいうえ町・はま町・うら町・有田町・黒尾くろお町の九町が挙げられ、安政二年(一八五五)の郷村帳には、上中かみなか町・幸善こうぜん町・上下かみしも町・中下なかしも町・下土井しもどい町・山代やましろ町などが新しくみえる。明治四年(一八七一)の前田家文書によれば、東町新町上中町・中町・幸善町・上下町立町・中下町・下町・上土井町・浜町・下土井町・からみ町・今町・有田町・東黒尾町・西黒尾町の計一七町、総竈数九六九とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報