伊手村(読み)いでむら

日本歴史地名大系 「伊手村」の解説

伊手村
いでむら

[現在地名]江刺市伊手

浅井あさい横瀬よこぜ両村の東に位置し、北上高地の山地と丘陵に立地。中央を伊手川が西流し、その流域に盆地状の平地が開けている。さかり街道が抜ける要衝の地で、宿駅(伊手宿)が置かれ、市店があって町場が形成されていた(封内風土記)。天文七年(一五三八)江刺美濃守信重と気仙けせん高田たかた(現陸前高田市)の千葉大膳大夫胤継が伊手郷で合戦に及んだ(岩手県史)。「葛西真記録」に葛西氏家臣として「伊手隼人 居住伊手村」「及川左近次郎 伊手村主」がみえる。「仙台領古城書上」伊手村のうちに、新谷あらや(荒谷)城主及川右近、狐石きつねいし城主及川常陸とみえる。

藩境である当村には、元和八年(一六二二)伊達政宗の叔父藤田但馬守が岩谷堂いわやどう城から移され、荒谷あらや(城)に入封した。また仙台藩直属の足軽二〇人が配置されて藩境の警備に当たった(「仲間連判の巻」三瓶文書)。しかし延宝六年(一六七八)藤田右兵衛宗景の代に断絶した(安永風土記)。宗景は岩谷堂城から移封されたのを遺恨に思い、瑞巌ずいがん(現宮城県宮城郡松島町)での政宗三回忌法要の際、位牌に斬付け、当地に帰って割腹して果て、二人の子も高林こうりん寺裏山で割腹したとも伝える(江刺市史)。その後は奥郡奉行下の代官によって支配された。なお慶長年中(一五九六―一六一四)伊達政宗に召出され江刺郡指引を命ぜられ、知行五〇貫文で兵具と足軽三〇人のほか家臣扶持を許された菊池氏が、当村上伊手に配されていた。寛永年中(一六二四―四四)大番組士を務めた。明暦二年(一六五六)死去した六右衛門のとき村内の荒地を開拓して知行地七貫八七八文を加えたが、寛文五年(一六六五)半減された(仙台藩家臣録)。「安永風土記」には、菊池末之丞の家臣屋敷二〇軒が上伊手にあるとみえる。


伊手村
いでむら

[現在地名]丸森町大内おおうち

大内村の北、集落は雉子尾きじお川支流の伊手川沿いに立地する。同川南岸に平坦地がみえる。西は金山かねやま本郷と接し、東は福田ふくだ(伊手峠)を越えて宇多うだ福田(現福島県相馬郡新地町)に至る。なお福田村は仙台藩領。村名は井手に通じるとも、諏訪社裏の山頂に祀られる飯天大明神にかかわるともいう。正保郷帳では田六九貫八二文・畑一二貫四二三文。「安永風土記」では田六九貫五一五文・畑一二貫五八四文で、蔵入一貫余を除いて伊達氏一族中島氏の知行であった(中島氏預給主・預足軽分の一六貫余を含む)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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