日本歴史地名大系 「伊方浦」の解説
伊方浦
いかたうら
東は
「大成郡録」に記された太閤検地(天正一五年―文禄三年)の村高は右と同様で、田二一町四畝二七歩(三八パーセント)、畑三三町九反一三歩(六二パーセント)であったが、寛文検地(寛文一〇―一二年)では石高が一・六倍に増加し、水田一〇パーセント、畑九〇パーセントの比率に変化しており、畑の開発の進んだことがわかる。また宝永三年(一七〇六)の戸数三六三、人口一千九八六、牛一九三、馬一三二、元網二〇帖(うち鰯網一〇帖)、網船二〇艘、小舟八七艘となっている。このうち鰯網一〇帖の内訳をみると
村内は一一の枝浦に分れているが「墅截」「西海巡見志」によって寛文―貞享(一六六一―八八)頃の枝浦の状態をみると次のようである。
河内浦 川内とも書く。「佐瀬部之湊内」とある。家数三三軒、村柄「中」、田「下」、畑「下」、水掛り「吉」。鬮持制実施期(寛文一三年―寛保三年)の本百姓一人前耕地は田三反五畝二四歩、畑一町七反三畝一五歩。石高八一石三斗五升。舟加子は河永田に属す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報