大洲藩(読み)おおずはん

藩名・旧国名がわかる事典 「大洲藩」の解説

おおずはん【大洲藩】

江戸時代伊予(いよ)国喜多郡大洲(現、愛媛県大洲市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は止善書院明倫堂(しぜんしょいんめいりんどう)。藤堂高虎(とうどうたかとら)伊勢(いせ)国津藩に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))となったあと、1609年(慶長(けいちょう)14)に脇坂安治(わきさかやすはる)が5万3000石で入封して立藩。脇坂氏父子のあと、17年(元和(げんな)3)に加藤貞泰(さだやす)が伯耆(ほうき)国米子藩から6万石で入封、以後加藤氏が13代にわたって明治維新まで治めた。23年に支藩新谷(にいや)藩1万石が成立。大洲藩は好学の藩風で知られ、陽明学者の中江藤樹(なかえとうじゅ)は当藩出身。また勤王(きんのう)の気風が高く、幕末には勤王派の代表的な藩として全国的に知られた。1867年(慶応(けいおう)3)に藩所有の蒸気船「いろは丸」を坂本竜馬(さかもとりょうま)らの海援隊(かいえんたい)に貸与したのは有名。藩軍を御所の警備に当たらせたほか、戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に加わって奥羽へも転戦。71年(明治4)の廃藩置県で大洲県となり、その後、宇和島県、神山(かみやま)県を経て、73年愛媛県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大洲藩」の意味・わかりやすい解説

大洲藩
おおずはん

伊予国(愛媛県)の中西部、肱(ひじ)川が貫流する大洲盆地を中心とする外様(とざま)藩。藤堂高虎(とうどうたかとら)、脇坂安治(わきざかやすはる)・安元(やすもと)父子の後を受け、1617年(元和3)伯耆(ほうき)国(鳥取県)米子(よなご)から加藤貞泰(さだやす)が6万石を得て就封、13代約250余年間続いて明治維新に及んだ。1623年新谷(にいや)藩1万石を分知し、実質5万石ながら6万石の格式で遇された。1635年(寛永12)風早(かざはや)郡、桑村(くわむら)郡の飛地(とびち)を松山藩と交換して所領を喜多(きた)、伊予、浮穴(うけな)の3郡にまとめることができ、新領を「御替地(おかえち)」とよんだ。1658年(万治1)御替地漁民が松山藩領松前(まさき)漁民と漁場論争を起こしたが、土佐藩主の調停で事なきを得た。1750年(寛延3)内ノ子(うちのこ)騒動とよばれる大規模な農民一揆(いっき)が勃発(ぼっぱつ)したが、新谷藩と寺院の調停で1人の犠牲者も出さず農民の願いが達せられた。陽明学者中江藤樹が若き日に仕えたこの藩は好学の藩風で知られ、藩校止善(しぜん)書院明倫堂や常磐井(ときわい)家の私塾古学堂(こがくどう)が人材を出した。

[伊藤義一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大洲藩」の意味・わかりやすい解説

大洲藩
おおずはん

江戸時代,伊予国 (愛媛県) 喜多郡大洲地方におかれた藩。池田秀氏2万石が関ヶ原の戦いで西軍に属したため除封され,脇坂安治が淡路 (兵庫県) 洲本より5万 3500石で転入する。元和3 (1617) 年脇坂氏は信濃 (長野県) 飯田へ転出し,伯耆 (鳥取県) 米子より加藤貞泰6万石が転入する。元和9 (23) 年同国新谷藩1万石を分家し5万石となり,のちに1万石を加増されて廃藩置県にいたる。外様,江戸城柳間詰。 (→飯田藩 )

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デジタル大辞泉プラス 「大洲藩」の解説

大洲藩

伊予国、大洲地方(現:愛媛県大洲市)を領有した藩。本拠地の大洲城は元弘期の創建と伝わり、藤堂高虎・脇坂安治ら歴代城主が手を入れた。元和年間に加藤氏が6万石で入封、以後明治維新まで加藤氏が13代にわたり統治。幕末に起きた「いろは丸事件」で沈没した西洋式蒸気船いろは丸は、同藩が所有し海援隊に貸与していたものである。

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