朝日日本歴史人物事典 「伊藤伝七」の解説
伊藤伝七(10代)
生年:嘉永5(1852)
明治大正期の企業家。伊勢国三重郡室山村(四日市市)の酒造家に生まれる。母は進士みす。幼名清太郎,元服して伝一郎。父の死後伝七(10代)を襲名した。父の9代伝七と5代伊藤小左衛門とは従兄弟であった。伝七(10代)は,幼時から俊英の誉れが高く20歳で副戸長に就任したあと,伊藤小左衛門から紡績業を勧められ,明治10(1877)年26歳のとき官営堺紡績所に見習いとして入り,紡績技術を習得した。13年政府が殖産興業の一環として実施した輸入紡績機械の払い下げを受け,水力を動力とする三重紡績所を三重県川島村(四日市市)に創設した。しかし技術と動力の不足から経営困難に陥っていたところ,三重県令の紹介で渋沢栄一の知遇を受け,資金と技術者の斡旋を得,19年四日市で近代的技術と株式会社組織の三重紡績会社を設立。同社は日清戦争中の旺盛な需要に恵まれ利益を蓄積し,30年代には三重県と愛知県下の紡績会社を次々と合併し日本屈指の紡績会社となった。大正3(1914)年三重紡績を渋沢栄一と関係の深かった大阪紡績と合併させて東洋紡績を設立し,5年から9年まで社長を務めた。その傍ら,明治大正期の四日市の企業勃興に際し,多く新設企業に投資し,また四日市商工会議所副会頭,貴族院議員を歴任。人間関係と時流の双方に恵まれた刻苦勉励の人であった。<参考文献>絹川太一編『伊藤伝七翁』
(桜谷勝美)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報