伊藤六郎兵衛(読み)いとうろくろべえ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊藤六郎兵衛」の意味・わかりやすい解説

伊藤六郎兵衛
いとうろくろべえ
(1829―1894)

幕末・明治初期の宗教家。丸山(まるやま)教の教祖。文政(ぶんせい)12年7月15日、武蔵(むさし)国橘樹(たちばな)郡登戸(のぼりと)村(神奈川県川崎市)に生まれる。幼名は清宮米吉(きよみやよねきち)。伊藤家の婿養子となり六蔵、ついで六郎兵衛を名のる。1870年(明治3)に初めて神の声を聞いてから断食(だんじき)などの行を重ね、やがて病気治しなどにより「生き神行者」の評判を高め、信者を集めた。しかし彼は教導職でなかったため宗教活動に弾圧を加えられ、当時、各地の富士講を一つに組織しようとしていた宍野半(ししのなかば)の勧誘により、1875年に富士一山講社(後の扶桑(ふそう)教)に所属して布教活動を行った。この後、教導職の資格を得る。宍野の死後、1885年に扶桑教を離脱し、神道本局に所属する丸山教会本院(後に丸山教)として布教を行った。彼の教えはあまり体系だっていないが、全体として世直し的性格が強い。その教えは『御調(おしらべ)』にまとめられた。

[井上順孝 2018年6月19日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊藤六郎兵衛」の解説

伊藤六郎兵衛 いとう-ろくろべえ

1829-1894 幕末-明治時代の宗教家。
文政12年7月15日生まれ。富士信仰の上に独自の神道教義をたて,明治6年丸山教をひらく。教導職の資格がないため弾圧をうけ,8年から富士一山講社(のちの扶桑(ふそう)教)に属して活動。のち資格をえて,18年丸山教会として神道本局に所属した。明治27年3月30日死去。66歳。武蔵(むさし)橘樹(たちばな)郡(神奈川県)出身本姓は清宮。著作に「おしらべ」(教義書)。

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世界大百科事典(旧版)内の伊藤六郎兵衛の言及

【丸山教】より

…富士信仰をふまえ伊藤六郎兵衛(1829‐94)が明治初期に創唱した世直し的性格をもつ宗教。伊藤は武蔵国橘樹(たちばな)郡登戸に生まれ,3度の大病が富士講の祈禱と信仰で全快したため富士信仰に熱中。…

※「伊藤六郎兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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