宍野半(読み)ししのなかば

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宍野半」の意味・わかりやすい解説

宍野半
ししのなかば
(1844―1884)

幕末・明治前期の宗教家。扶桑(ふそう)教の創立者。薩摩(さつま)国(鹿児島県)の郷士の子として生まれる。青年時代に国学者平田鉄胤(ひらたかねたね)(1799―1880)の門人となった。明治維新後、1872年(明治5)に教部省に仕えたが、翌1873年これを辞め、静岡浅間(せんげん)神社の宮司となり、また近辺のいくつかの神社の祠官(しかん)も兼務しながら、各地に散在する富士講結集を図った。同年富士一山講社を設立し、1875年にはこれを神道事務局所属の扶桑教会とし、さらに1882年には扶桑教として一派独立させた。扶桑教の初代管長に就任してまもなく没したが、管長職は世襲されている。

[井上順孝 2018年6月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宍野半」の意味・わかりやすい解説

宍野半
ししのなかば

[生]弘化1(1844).薩摩
[没]1884.5.12.
江戸時代末期の神道家。幼名は半左衛門,半之進,のち半と改めた。平田銕胤 (かねたね) に神道を学び,代々郷士の家で薩摩の復古神道に属する。明治5 (1872) 年教部省の出仕となった。富士一山講社を組織し,翌年浅間神社の宮司となり,吉田,須走などの神社祠官を兼ね,富士信仰の復興に努力した。 1882年一派独立の許可を得て,扶桑教と称し,その管長となる。造化三神を主神として祀り,神道が国法たることを強調し,教典として『神徳経』『神理大要』などがある。皇典講究所創立にも尽力し,自著に『扶桑教』『富士信導記』を残した。

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朝日日本歴史人物事典 「宍野半」の解説

宍野半

没年:明治17.5.13(1884)
生年:弘化1.9.9(1844.10.20)
幕末明治期の神道家,扶桑教の創立者。薩摩国隈之城(鹿児島県川内市)の郷士の家に生まれる。青年時代に平田銕胤の門人となり,国学,神道を学ぶ。維新後,明治5(1872)年に教部省に仕える。翌年教部省を辞め,静岡県浅間神社の宮司となる。近辺の神社の祠官を兼務しながら,各地に散在する富士講の結集を図る。同年富士一山講社設立運動をおこし,富士の廃仏毀釈を図る。富士各所の名前を神道色に変える。明治8年に,丸山講の伊藤六郎兵衛をひきいれて,扶桑教会を設立。15年には,これを扶桑教として一派独立させる。皇典講究所創立にも尽力。

(井上順孝)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宍野半」の解説

宍野半 ししの-なかば

1844-1884 明治時代の神道家。
天保(てんぽう)15年9月9日生まれ。平田銕胤(かねたね)にまなぶ。明治5年教部省に出仕。翌年職を辞し,静岡県浅間(せんげん)神社の宮司となる。各地の富士講の結集をはかり,同年,富士一山講社を組織。8年丸山講を傘下にいれて扶桑教会を設立。15年教派神道として独立し扶桑教と改称,初代管長。明治17年5月13日死去。41歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。

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