伊野上村(読み)いのかみむら

日本歴史地名大系 「伊野上村」の解説

伊野上村
いのかみむら

[現在地名]棚倉町棚倉

現棚倉町の中央東寄り、阿武隈高地八溝やみぞ山地の間を南東流する久慈くじ川左岸の平地台地に立地。古くから交通の要衝で、都々古別つつこわけ神社が鎮座。もと鎮座地を馬場ばばと称したが、江戸時代に同社は北西に移され(地名も移動)、跡地に棚倉城が築かれた。それに伴い城下の北部は伊野上村、南部は伊野下村となった。伊野は古代の白河郡入野いの(和名抄)の遺称といわれる。中世には印野・飯野とも書き、いのの郷と称した。貞和二年(一三四六)頃と考えられる新恩所領注文(白河証古文書)に、高野郡北方内の「印野」がみえ、中先代の乱により闕所地となった印野のほか七ヵ村を合せ、建武二年(一三三五)八月恩賞として伊達為景に与えられた。為景は延元四年(一三三九)七月一八日、これらのうち高野郡北方「いのゝ」郷内西高蕨にしたかわらび・東高蕨に仁公儀にこうぎ村を加えた三ヵ所を、結城親朝所有の金原かなはら筆甫ひつぽ(現宮城県丸森町)と交換している(「伊達為景相博状」結城大蔵結城文書)。応安四年(一三七一)三月六日の結城朝常寄進状案(有造館本結城古文書写)に「高野郡内馬場宮東宿等」とみえ、当地にあった都々古別神社の東側に宿場が形成されていたようである。寛永元年(一六二四)同社移転後、宿場は棚倉城下の町場として継承される。

風呂ふろさわの標高三四五メートルの通称たて山にあか(赤館城)があった。馬場都々古別神社の別当であった高松家の家系明細録(棚倉町史)によれば、建武年中伊賀国から下ったという伊賀隆定の嫡男左門が高松家の養子となり、高松良聖と名乗り先達職を継承。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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