李氏朝鮮(読み)リシチョウセン

デジタル大辞泉 「李氏朝鮮」の意味・読み・例文・類語

りし‐ちょうせん〔‐テウセン〕【李氏朝鮮】

朝鮮の最後の統一王朝。1392年、太祖李成桂高麗こうらいを滅ぼして即位、翌年国号を朝鮮と定めた。漢城(ソウル)を首都とし、朝鮮半島全土を領有。16世紀末から豊臣秀吉の大軍の侵入を受け、17世紀にはに服属。日・清の対立後の1897年に国号を大韓帝国と改称。日露戦争後日本の保護国となり、1910年、日本に併合されて滅んだ。朱子学中心の文教政策のため、金属活字による図書文化が発展。李朝。

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精選版 日本国語大辞典 「李氏朝鮮」の意味・読み・例文・類語

りし‐ちょうせん‥テウセン【李氏朝鮮】

  1. 朝鮮の統一王朝(一三九二‐一九一〇)。太祖李成桂が高麗を倒して建国、漢陽(現在のソウル)に都した。儒教を国教化し、領土を朝鮮半島全域に拡げるなど、一五世紀に最盛期を迎えた。その後、党争が激化し、また豊臣秀吉の軍、清軍の侵入をこうむり社会は混乱した。一九世紀には日本や欧米列強の圧力を受け、日露戦争後の一九一〇年、日本に併合された。李朝。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李氏朝鮮」の意味・わかりやすい解説

李氏朝鮮
りしちょうせん

高麗(こうらい)に続く朝鮮最後の統一王朝(1392~1910)。朝鮮王朝。李朝と略す。

概観

咸鏡道(かんきょうどう)地方の豪族出身の太祖李成桂(りせいけい)は、内外政多難な高麗末期に武人として倭寇(わこう)対策などに功績をあげて台頭し、政治中枢に参加した。土地制度改革で得た新興官僚層の支持を背景に1392年高麗最後の国王恭譲王(きょうじょうおう)(在位1389~1392)を追放して国王に即位し、翌年国号を朝鮮と定め、漢陽(後の漢城、現ソウル)に都した。初め王族の内紛で不安定だった王権も第3代太宗(1367―1422)のころ安定し、貴族の私兵が廃止され、朱子学による思想統制の下、中央集権的官僚制度が整備された。しかし王権は絶対的・超越的な力をもたず、政治は合議制によって行われ、高級官僚の合議機関として初め議政府(ぎせいふ)、のちに備辺司(びへんし)が実権をもった。第4代世宗から第9代成宗(1457―1495)にかけて国力が充実し、領域が鴨緑江(おうりょくこう)・豆満江(とまんこう)の線まで拡大し、ハングル(訓民正音)が創作され(1446)、基本法典である『経国大典(けいこくたいてん)』をはじめ各種編纂(へんさん)事業が行われた。官僚は原則として科挙で選ばれるとされていたが、実際は血縁・地縁の原理が強く作用し、それが政府内部における激しい権力争いとして展開した。15世紀末には新興官僚による士禍(しか)が起こり、16世紀になると朱子学の解釈を理論的武器とした学問上の争いの体裁をとる党争へと発展した。党争は大きく南人、北人、老論、少論の4派に分かれて争われたが、官僚・儒生がすべていずれかの党派に属し、父子代々続く争いを王朝末期まで繰り広げた。

 冊封(さくほう)を受けた明(みん)朝には事大関係を結び、日本とは対等の交隣関係を外交方針としていた。しかし1592~1598年の豊臣(とよとみ)秀吉軍の侵入(壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の乱、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)で大きな被害を受けた。多くの人命が失われ、国土は戦火で荒廃し、貴重な文化財が焼かれたり日本に持ち去られた。民衆を主体とする義兵の活躍、李舜臣(りしゅんしん)指揮下の水軍の勝利、明軍の救援などで日本軍は撤退したが、その傷もいえないうちに、1627年、1636年の二度にわたって清(しん)軍が侵入し(丁卯(ていぼう)・丙子(へいし)の胡乱(こらん))、首都が占領され、清に服属を誓わせられた。日本との関係は、政権が豊臣氏から徳川氏にかわったことで修復され、対馬(つしま)宗(そう)氏との倭館(わかん)も復活し、将軍の代替りごとに通信使などの使節を派遣すること十二度に及んだ。

 18世紀に入ると清を通して西洋の学問が入って影響を与え、キリスト(天主)教が広まった。政府はキリスト教を邪学とよんで禁止し、何度も大弾圧を行った。19世紀には平安道一帯にわたる洪景来(こうけいらい)の乱(1811~1812)が起こるなど生活苦にあえぐ民衆反乱が相次ぎ、1862年には全国的な広がりをみせるに至った。こうして朝鮮が衰退をみせるころ、欧米列強が来航して開国を要求し、1866年にはフランス艦隊が、1871年にはアメリカ艦隊が江華島を攻撃した。これに対し高宗の父(興宣)大院君(たいいんくん)は鎖国攘夷(じょうい)政策を固持し、キリスト教徒を弾圧しつつ列強の攻撃と対峙(たいじ)していた。しかし外戚(がいせき)閔(びん)氏が政権を握ると、1876年雲揚号砲撃事件を契機として日本との間に日朝修好条規江華条約)を締結し、開国した。1882年壬午(じんご)軍乱で大院君がいったん復活したが、清軍の介入でふたたび閔氏が政権を握り、西欧列強にも開国した。一方、内政改革を主張する開化派は日本軍支持の下、1884年金玉均(きんぎょくきん)を中心として甲申政変を起こすが、守旧派・清軍に弾圧された。1894年東学を紐帯(ちゅうたい)とし広く民衆を糾合した反乱(甲午農民戦争、東学党の乱)が起こるや、日清両国はこの鎮圧を口実に出兵し、日清戦争が始まる。同年甲午改革が行われ、諸制度が改められた。この戦争に勝利した日本はいったん朝鮮における独占的支配を固めたが、三国干渉で退潮を余儀なくされ、1895年閔妃(びんひ)の暗殺(乙未(いつみ)事変)まで行ったものの、ロシア勢力に圧倒された。1897年には高宗が皇帝となり、大韓帝国と改称して朝鮮王朝の名称が消えた。1895年日露戦争に勝利した日本は朝鮮の独占的支配権を得、同年11月第二次日韓協約で外交権を掌握し、統監府を設置して伊藤博文(ひろぶみ)が初代統監となった。1907年ハーグ密使事件を口実に司法権・警察権も入手した日本は、1910年ついに併合を強行し、朝鮮を植民地とした。これに対し朝鮮官民は義兵闘争などの抵抗を続け、三・一独立運動の源流となるのである。

[吉田光男]

社会・経済

身分は大きく両班(りょうはん)(ヤンバン)・中人(ちゅうじん)・常民・賤民(せんみん)の四つに分かれる。両班は政治・経済・社会的な支配層であり、官僚であり地主であった。彼らは科挙に合格して官僚になるべきものとされ、そのために地方に郷校(きょうこう)や書院、中央に成均館などの教育機関が置かれた。しかし実際には科挙以外の方法で官僚となる者も多かったし、官僚にならず地方に土着する者(郷班)も多かった。本来両班人口は全体の数%とみられるが、王朝末期になると売位売官や冒称などでそれが急激に増大した。両班は中央・地方の勢力争いに勝ち抜き、他身分に対する支配権を確保するため、父系血縁でつながる一族が団結し、系図である『族譜』を作成して自己の正統性の根拠とした。中人は医師・訳官など中下級の技術官吏となり、準両班の位置を占めるが、その数は非常に少ない。もっとも人口数の多いのが常民であり、大部分は農業に従事し、国家の税・役を負担していた。賤民には奴婢(ぬひ)・白丁(はくてい)などがある。奴婢は農業などに従事し、常民に次ぐ人口数をもつが、彼らには身分上昇の機会が与えられている点、上昇の機会が完全に閉ざされ職業的にも賤視された被差別民である白丁などとは異なる存在である。

 農民が大多数を占める朝鮮の商品流通の主要な舞台は、全土に散在する1000余の場市(5日ごとの定期市)であり、生産者や行商人(褓負商(ほふしょう))が生活必需品の取引を行った。褓負商のなかでも開城を根拠地とする松商は独特の複式簿記(開城簿記)をもつなど、全国的な活動をした。都には廛(てん)とよばれる常設店舗があり、販売特権を与えられる代償に政府に物品を提供していた。18世紀以降、大同法による貢納の地税化とその銭・木綿納化により、都市化の進展と相まって都の商業活動は活発化する。貨幣は鋳造と紙幣(楮貨(ちょか))があったが、政府の使用奨励策にもかかわらず、民間レベルでの流通水準は高くなかった。

 対外貿易には、対馬宗氏を相手として釜山(ふざん)で行われた倭館貿易、義州・会寧・慶源で清との間に行われた開市(かいし)があるが、中継貿易の性格が強く、生活必需品以外の商品の多くは朝鮮を通過して日本・中国へ流れていった。

[吉田光男]

文化

朝鮮王朝文化の特色の一つに金属活字の発達がある。政府を中心として何度も活字鋳造が行われ、印刷文化が発展した。また高麗青磁と並ぶ李朝白磁にもみるべきものがあり、秀吉の侵入時に工人と製作技術が日本へもたらされ、日本の陶磁器業の基礎を築いた。

 王朝は朱子学を公認思想として採用し、これ以外のもの、とくに仏教を公式には禁止した。朱子学は両班支配を支える理論的根拠として朝鮮社会を規定し、日本に影響を与えた李滉(りこう)(号は退渓(たいけい))や李珥(りじ)(号は栗谷(りっこく))などの学者が出、多くの学派が形成されたが、それはまた党争とも結び付いた。一方、観念化し現実と遊離した朱子学を批判し、合理的認識による現実とのかかわり合いを重視する実学派が生まれ、政治改革を主張した丁若鏞(ていじゃくよう)(号は茶山)や、身分制廃止を唱えた洪大容(こうだいよう)(1731―1783)が出た。彼らの主張は実現しなかったが、後の開化思想に多大の影響がみられる。しかし一般民衆は朱子学に規定されつつも、それとは異なる世界に生き、女性を中心に仏教が根強く信仰されていたし、土俗的な民間信仰の力も大きかった。彼らの意識のなかから『春香伝』『沈清伝』『洪吉童伝』などの語り物(パンソリ)が育ち、ハングル文学として定着した。また絵画も両班の間では北宋画(ほくそうが)系の墨絵にみるべきものが多いが、民衆に親しまれたのは民画であり、生活実態を写実的に描写した申潤福(しんじゅんふく)(生没年不明)や金弘道(きんこうどう)(1760―?)の風俗画も現れた。

[吉田光男]

『朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(1974・三省堂)』『李基白著、武田幸男他訳『韓国史新論』(1979・学生社)』『武田幸男編『朝鮮史』(1985・山川出版社)』


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旺文社世界史事典 三訂版 「李氏朝鮮」の解説

李氏朝鮮
りしちょうせん

1392〜1910
朝鮮の最後の王朝。李朝ともいう
太祖李成桂 (りせいけい) は高麗に仕えていたが,倭寇 (わこう) を破って人望を集め,やがて実権を握り,1392年王位について国号を朝鮮と称し,漢城(現在のソウル)に都した。以後,明に服属,儒学を導入し,技術文化も発達して国力が充実した。特に15世紀の銅活字印刷術と,表音文字である訓民正音(ハングル)の発達は注目すべきものがある。また両班 (ヤンバン) (武班・文班)と呼ばれる特権的な世襲官僚が実権を握り,大地主・高利貸としても社会の支配的地位を占め,官僚相互間における党争が激しかった。16世紀末に豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱)によって国土は荒廃し,さらに17世紀前半には清に服属し,18世紀には実学が発達した。19世紀後半から日本および列強の圧力が加わり,1876年の開国以後は日清の対立が生じるなか,朝鮮の内部でも親日・親清両派が対立して壬午 (じんご) 軍乱,甲申 (こうしん) 政変などが起こった。日清戦争後は日本とロシアの対立にまき込まれ,1897年国号を大韓帝国と改めたが,日露戦争後,日本が保護国とし,さらに1910年にこれを併合して韓国は一時滅亡した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「李氏朝鮮」の解説

李氏朝鮮
りしちょうせん

1392~1910年の朝鮮半島の王朝,李朝。高麗の武人李成桂(りせいけい)が建国。明の裁可をえて国号を朝鮮とした。首都は漢城府(現,ソウル)。文武の両班(ヤンバン)を中核とする集権的な官僚支配体制を形成。「訓民正音」(ハングル・朝鮮文字)を制定した15世紀前半の世宗時代が最盛期。17世紀初頭の清国の侵入以後は清と宗属関係に入った。日本とは室町時代に応永の外寇,日朝貿易などの関係があり,16世紀末に豊臣秀吉の侵略をうけて疲弊。江戸幕府とは朝鮮通信使を送って友好関係を維持したが,幕府滅亡で朝鮮側は鎖国方針をとった。明治政府は日朝修好条規を結び開国させたが,閔(びん)氏政権のもとで日清両国の対立抗争が続いた。1897年国号を大韓帝国,国王を皇帝と改称。日清・日露戦争の結果日本が影響力を拡大し,1910年韓国併合によって滅んだ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「李氏朝鮮」の解説

李氏朝鮮
りしちょうせん

李成桂 (りせいけい) の建国(室町時代)から日本の韓国併合(明治時代)まで約500年間続いた朝鮮の王朝(1392〜1910)
明に属しながらも,倭寇征討に力を入れた李成桂(太祖)は積極的に日本の室町幕府や諸大名と貿易を行った。16世紀末,豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって国土を荒らされ国交も絶えたが,江戸初期に復交。1637年には清の属領となる。19世紀以降,欧米列国および日本の勢力が進出,江華島事件をきっかけに,1876年日朝修好条規を結び開国した。以後,日清両国間で覇権争いが続き,日清・日露戦争を経て1910年に日本に併合された。

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改訂新版 世界大百科事典 「李氏朝鮮」の意味・わかりやすい解説

李氏朝鮮 (りしちょうせん)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李氏朝鮮」の解説

李氏朝鮮(りしちょうせん)

朝鮮王朝

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李氏朝鮮」の意味・わかりやすい解説

李氏朝鮮
りしちょうせん

朝鮮王朝」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の李氏朝鮮の言及

【李朝】より

…1392年に高麗を滅ぼして成立し,1910年まで続いた朝鮮の王朝。李氏朝鮮の略称で,朝鮮王朝ともいう。李朝が成立した時期は,ちょうど日本では南北朝の動乱が終わって室町幕府が確立した時期であり,中国でも約20年前に元が滅びて明が成立している。…

※「李氏朝鮮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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