会理(読み)えり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「会理」の意味・わかりやすい解説

会理
えり
(852―935)

平安時代の真言宗の僧。出身地、姓氏は不詳。宗叡(しゅうえい)、聖宝(しょうぼう)、禅念(ぜんねん)(?―908)などに真言を学び、915年(延喜15)に東寺(教王護国寺)凡僧(ぼんそう)別当、928年(延長6)に東寺二長者(にのちょうじゃ)に進み、翌929年東寺別当に任じられた。絵画彫刻に秀でていたことで名高く、877年(元慶1)東寺の千手観音像(せんじゅかんのんぞう)造立(一説に聖宝作。国指定重要文化財)、907年東大寺毘沙門天(びしゃもんてん)と持国天(じこくてん)の修理を行った。そのほか、東寺五重塔の建立承平(じょうへい)年中(931~938)には50人余の仏師を指導して東大寺講堂の千手観音、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、地蔵菩薩の造立、同寺大仏殿の柱の絵、比叡山(ひえいざん)常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)、東寺灌頂院(かんじょういん)の祖師像などをつくり、平安初期の造像、絵画制作に大活躍した。承平5年12月24日、権少僧都(ごんのしょうそうず)として寂した。84歳。

[平井宥慶 2017年5月19日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「会理」の意味・わかりやすい解説

会理
えり

[生]仁寿2(852)
[没]承平5(935).12.27.
東大寺,教王護国寺などで活躍した密教僧で,彫刻,絵画をよくしたと伝えられる。宗叡の血脈を受け,延長6 (928) 年に権律師,翌年教王護国寺別当,承平5 (935) 年権少僧都に任じられた。専門の仏師,絵仏師ではないが多くの造仏事業に従事し,現存するものに,延喜8 (908) 年の教王護国寺食堂の『千手観音像』や醍醐寺の『薬師三尊像』がある。東大寺講堂の『千手観音像』『虚空蔵菩薩像』『地蔵菩薩像』の造顕においては大仏師をつとめた。そのほか教王護国寺五重塔造営,絵画では同寺灌頂堂の『祖師像』,東大寺大仏殿の柱絵図絵に関係したことが知られる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「会理」の解説

会理 えり

852-936* 平安時代前期-中期の僧。
仁寿(にんじゅ)2年生まれ。真言宗。宗叡(しゅえい),聖宝(しょうぼう),禅念らに師事。延長6年東寺二長者,承平(じょうへい)5年権少僧都(ごんのしょうそうず)。東寺の千手観音像,醍醐(だいご)寺の薬師三尊像,東大寺大仏殿の柱絵,東寺の祖師画像など,おおくの仏像,仏画を制作した。承平5年12月24日死去。84歳。

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世界大百科事典(旧版)内の会理の言及

【仏師】より

…また荘厳具(しようごんぐ)の製作に当たる工人は餝(かざり)仏師と呼ばれた。平安初期には官営工房から流れ出た工人の系統とは別に,純粋の僧侶で彫刻をよくする会理(えり)(852‐935)のような人物も現れるが,その後は寺院所属の仏師が活躍する。彼らはほとんどが僧とか法師,阿弥といった名称を仏師という肩書に併せ付し,〈仏師僧〉というように用いて,仏師ということと同時に僧という籍が重んじられ,実生活でも僧であったと思われる。…

【平安時代美術】より

…それはまず密教の教義が造形表現をかりなければ相伝しがたいといわれ,造形美術を著しく発展せしめたためであり,製作側からみると,従来の専門工人に加えて,教義に詳しくまた造形表現も可能な僧籍の人たちの出現をうながしたことにもよるであろう。10世紀初頭の醍醐寺の薬師三尊像は当代の名僧聖宝(しようぼう)と,その弟子で仏師である会理(えり)による造像であることが知られる。また952年(天暦6)同寺に建立された五重塔の初層を飾る極彩色の板絵には,両界曼荼羅の諸尊をはじめ,前述の七祖に空海を加えた真言八祖像などが描かれている。…

※「会理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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