平安時代の真言(しんごん)宗の僧。醍醐寺(だいごじ)の開祖。京都の人。空海の高弟真雅(しんが)の下で出家し、諸寺に三論(さんろん)宗、法相(ほっそう)宗、華厳(けごん)宗を学び、ふたたび真雅の室(むろ)に戻って真言宗を学ぶ。880年(元慶4)高野山(こうやさん)の真然(しんぜん)(804/812―891)に学び、887年(仁和3)には東寺(とうじ)の源仁(げんにん)(818―887)につき阿闍梨(あじゃり)となる。役小角(えんのおづぬ)の故事を慕って、日ごろ山に登り川を渡り山野に苦行修練して、修験道(しゅげんどう)の基礎を築いたので、「修験道の醍醐寺」といわれる。真言宗の法流には大きく分けて小野(おの)流と広沢(ひろさわ)流があるが、小野流は、彼の弟子観賢(かんげん)から広まったので、聖宝はその祖師と仰がれる。のちに理源大師(りげんだいし)の号を賜る。
[平井宥慶 2017年8月21日]
平安前期の僧。天智天皇6世の孫。恒蔭王といったが,16歳で東大寺に入り,空海の実弟の真雅を師として出家し,願暁,円宗に三論を,平仁に法相を,玄栄に華厳を学んだ。869年(貞観11)に興福寺維摩会の竪義(りゆうぎ)に出て,三論宗の立場で論を立ててその名を知られるようになった。その間真言の修学に励んでいたが,860年ころから山林修行に心を傾け,各地の霊山を巡るうち,874年に京都の東南の笠取山頂に道場を開き,それが醍醐寺の起源となった。真言の修行を終えた聖宝は,880年(元慶4)ころから貴族社会でも重んぜられるようになり,貞観寺座主,東寺長者,東大寺東南院主などに任ぜられ,僧正となった。弟子に観賢,延敒(えんちん)らがある。諸寺の造像に力を尽くし,《古今集》に1首の歌を収載する。権威にへつらわない豪快な僧としての逸話が多く,中世以降,修験道中興の祖として讃仰され,1707年(宝永4)東山天皇の勅によって理源大師の称号が贈られた。
執筆者:大隅 和雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…聖宝(しようぼう)(理源大師)を派祖とする真言密教系の修験教団。金峰山(きんぷせん),大峰山をはじめとして,熊野三山,葛城山を修行の根本道場とした。…
…それはまず密教の教義が造形表現をかりなければ相伝しがたいといわれ,造形美術を著しく発展せしめたためであり,製作側からみると,従来の専門工人に加えて,教義に詳しくまた造形表現も可能な僧籍の人たちの出現をうながしたことにもよるであろう。10世紀初頭の醍醐寺の薬師三尊像は当代の名僧聖宝(しようぼう)と,その弟子で仏師である会理(えり)による造像であることが知られる。また952年(天暦6)同寺に建立された五重塔の初層を飾る極彩色の板絵には,両界曼荼羅の諸尊をはじめ,前述の七祖に空海を加えた真言八祖像などが描かれている。…
…百螺山真言院と号する。役行者(えんのぎようじや)が草創し,895年(寛平7)聖宝(しようぼう)(理源大師)が毒蛇を退治して大峰入峰を再興し,900年(昌泰3)峰授の秘密灌頂(かんぢよう)(恵印(えいん)灌頂)をここで行い,その後弟子貞崇に付属したと伝える。1699年(元禄12),江戸戒定慧院俊尊は,三宝院門主高賢の命を受けて当寺の住職となり,当山修験諸国総袈裟頭を務めた。…
※「聖宝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新