佐伯城跡(読み)さいきじようあと

日本歴史地名大系 「佐伯城跡」の解説

佐伯城跡
さいきじようあと

[現在地名]佐伯市西谷町・大手町一丁目

番匠ばんじよう川河口近く左岸の旧塩屋しおや八幡はちまん(城山、一四〇メートル)の山頂に築かれた山城佐伯藩主毛利氏の居城で、慶長豊後国絵図には塩屋城とみえる。城郭の配置が鶴が舞う姿に似ているのでつるヶ城・鶴屋つるや(鶴谷)城・かく城とも呼称。しかし寛永年間(一六二四―四四)八幡山の東麓の三の丸に藩主居館を築いて平山城となった。

〔佐伯藩〕

慶長六年(一六〇一)四月、日隈ひのくま(現日田市)城主であった毛利高政が佐伯に移封になり佐伯藩が成立(朱印高二万石)。以降一二代高謙まで毛利氏が継承し幕末に至った。高政入部時の領域は海部郡南半分(現宇目町を除く現南海部郡全域・現佐伯市全域と現津久見市の一部)と入部と同時に臼杵藩から編入された赤河内あかごうち村・保戸ほと島・警固屋けごや(現津久見市、ただし直後に警固屋村と臼杵藩領鬼丸・奥河内両村と交換)床木ゆかぎ(現弥生町)であった。このうち堅田かたた村と床木村のうちで二千石を高政の弟吉安に分知した(寛政重修諸家譜)。慶長一〇年の検地目録帳(佐伯藩政史料)によれば佐伯藩領(吉安分知領を含む)の総石高一万九千石。吉安分知領は吉安が佐伯藩二代藩主高成の後継争いに関係して寛永一〇年幕府に返上したため幕府領(佐伯藩預)となった。このため佐伯藩領は朱印高一万八千石となったが、藩は実際の毛付高は二万石あるとして以降も佐伯藩二万石と称した。なお旧吉安分知領は寛文八年(一六六八)に幕府直轄領(日田代官所支配)となるが、天明三年(一七八三)以降再び佐伯藩預地で幕末に至った。

藩領の検地は高政入部前の文禄二年(一五九三)と慶長二年に実施されていた。慶長六年五月と同年六月の戸穴村検地指出帳(佐伯藩政史料)が残るが、前者は慶長二年検地高、後者は文禄検地高とみられ、佐伯藩では文禄検地高を基礎として前記慶長一〇年の検地目録帳が作成された。佐伯藩では高政時代以来新田開発を奨励、元禄四年(一六九一)上岡かみおか古市ふるいち下野しものの三ヵ村域を灌漑する小田こだ用水の開削、宝永三年(一七〇六)に上野村(現弥生町)域を灌漑し井崎いさき(現同上)の水田を開発したおに用水の開削などによりさらに積極的な開墾が実施された。元禄一二年以後享保一五年(一七三〇)までの検地せり出し高四千四三四石・新開田畑高一千六二四石余であった(「小林典膳控書」秋山家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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