佐田庄(読み)さだのしよう

日本歴史地名大系 「佐田庄」の解説

佐田庄
さだのしよう

安心院あじむ町佐田を遺称地とし一帯に比定されるが、散在庄園であり、庄域には現宇佐市や速見郡山香やまが町の一部も含まれる。宇佐御許山領であった(永和二年一〇月九日「散位某書下」太宰管内志など)。正応三年(一二九〇)宇都宮通房(佐田氏遠祖)豊前安雲あくも(現福岡県新吉富町)地頭職の替りとして「佐田庄」地頭職を得ており(同年一〇月四日「関東下知状」佐田文書)、正和二年(一三一三)八月一八日の鎮西下知状(到津文書)でも大和前司宇都宮(城井)頼房(通房子)領として庄名がみえる。当庄は宇都宮惣領家の頼房・守綱と伝領され、正慶二年(一三三三)までの間に守綱は弟公景(佐田氏祖)譲与以後佐田氏が代々相伝した。

嘉慶二年(一三八八)宇都宮親景は押領された佐田庄半分についてその知行を求め訴えている(同年六月日「宇都宮親景代申状」佐田文書)。同申状によると、九州が宮方で一統されたとき北朝方の父経景は大友氏・少弐氏とともに上洛して北朝方の復活を嘆願、やがて九州探題今川貞世が下向、経景は所々の合戦に参戦し筑後国山崎合戦で戦死したという。親景は幼少であったため宮方の宇都宮氏治はこの時を好機として探題方につき、親景の所領を押領し、経景が伯父守綱に預けていた文書も誘い取り、親景の代官を殺害したうえに老母に至るまで追放した。氏治には子がなく押妨地を他人に契約するという非法の数々を行っていたという。応永六年(一三九九)親景は城井きい(現福岡県犀川町)から庄内青山あおやま(現安心院町)に城を築き移住、佐田氏を称している(「宇都宮佐田氏系図」佐田文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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