日本歴史地名大系 「佐田庄」の解説
佐田庄
さだのしよう
現
嘉慶二年(一三八八)宇都宮親景は押領された佐田庄半分についてその知行を求め訴えている(同年六月日「宇都宮親景代申状」佐田文書)。同申状によると、九州が宮方で一統されたとき北朝方の父経景は大友氏・少弐氏とともに上洛して北朝方の復活を嘆願、やがて九州探題今川貞世が下向、経景は所々の合戦に参戦し筑後国山崎合戦で戦死したという。親景は幼少であったため宮方の宇都宮氏治はこの時を好機として探題方につき、親景の所領を押領し、経景が伯父守綱に預けていた文書も誘い取り、親景の代官を殺害したうえに老母に至るまで追放した。氏治には子がなく押妨地を他人に契約するという非法の数々を行っていたという。応永六年(一三九九)親景は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報