日本歴史地名大系 「保科村」の解説
保科村
ほしなむら
東は
村内を保科川に沿ってほぼ南北に古道が通る。上野国
保科の地名は「和名抄」記載の古代の郷名として「穂科保之奈」とみえるほか、「吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月の条に「保科御厨」、同三年二月の条「保科宿」、更に諏訪社上社の神使御頭足之書の天正元年(一五七三)のものには「大県介保科郷」と記される。
村名としては慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「千二百八拾三石九斗六升六合 保科村」とみえ、大村のうちに属す。
村域周辺一帯には早くから保科氏が拠ったと思われるが、中世初頭、井上(現須坂市井上)に拠って井上氏の一党の地となったようである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報