保科氏(読み)ほしなうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「保科氏」の意味・わかりやすい解説

保科氏
ほしなうじ

本姓清和源氏(せいわげんじ)頼季(よりすえ)流。星名、穂科、保志奈と相通じ、源平合戦のころから武将、武士、郎従の氏として、信濃(しなの)、越後(えちご)、佐渡、甲斐(かい)、武蔵(むさし)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)などの各地にみられる。そのなかで主流は信濃(長野県)の保科氏である。この一流である伊那(いな)保科氏は、源経基(みなもとのつねもと)の長男多田満仲(ただみつなか)の孫井上掃部助(いのうえかもんのすけ)頼季を祖とした。北信濃の高井郡井上に土着し、一族は付近の保科郷にも広がり鎌倉・室町時代に武名をあげた。戦国期には、筑後守(ちくごのかみ)正則が伊那高遠(たかとお)城(長野県伊那市)城主となり、その子正俊は武田信玄(たけだしんげん)・勝頼(かつより)父子に仕え槍弾正(やりだんじょう)として勇名をはせ、およそ三十七度の軍功があったと伝えられる。1582年(天正10)から正直(まさなお)・正光父子とも徳川家康に仕え、1590年正光は下総国多古(たこ)(千葉県多古町)に1万石を賜り、関ヶ原の戦いの功により、旧領高遠3万石に復し、継母の縁により将軍秀忠(ひでただ)の第4子を養嗣子(ようしし)とした。これが保科正之(まさゆき)で、1643年(寛永20)会津藩主となった。1696年(元禄9)に至って、家門に列し、会津松平氏となった。一方、正光の異母弟でその養子となっていた正貞は家を離れ旗本となり、ついで上総飯野(いいの)(千葉県富津(ふっつ)市)1万7000石の大名となった(のち2万石)。旗本直参(じきさん)の保科氏は飯野保科氏の分家である。

誉田 宏]


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改訂新版 世界大百科事典 「保科氏」の意味・わかりやすい解説

保科氏 (ほしなうじ)

信濃の豪族。平安末期諏訪氏の一族が高井郡保科(現在の長野市若穂地区)によったことにはじまる。1181年(養和1)の横田河原の合戦に木曾義仲軍井上光盛の手勢として保科党がみえる。また保科太郎は源頼朝の家人となった。一族は15世紀はじめに伊那高遠へ移った。その後裔正則は高遠城により,正俊,正直の2代は武田氏に属し勇名をはせた。正直は武田氏滅亡後徳川氏に仕え,1590年(天正18)徳川氏の関東移封にともない下総多胡1万石の領主となった。その子正光は関ヶ原の戦に際し浜松城を守り,戦後旧領高遠城2万5000石に復帰,1617年(元和3)秀忠の実子幸松丸(後嗣となった正之)の養育を託され,翌年筑摩郡に5000石加増された。正之は36年(寛永13)山形藩20万石,43年さらに会津藩23万石に転封され,以後子孫がこれをついだ。明治維新後子爵。一方正直の三男で正光の養子となった正貞は48年(慶安1)大坂定番になり,上総飯野藩2万石を領し以後世襲。維新後子爵。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「保科氏」の意味・わかりやすい解説

保科氏
ほしなうじ

清和源氏井上頼季の後裔という。信濃国高井郡保科に住し,光利のとき保科氏を称したという。初め武田氏に仕え,正直,正光のとき徳川家康に従い,大坂の陣後,信濃高遠3万石を領した。正光に嗣子がなかったので,徳川秀忠の子正之がその養子となり,寛永 13 (1636) 年出羽山形 20万石に封じられた。同 20年正之は松平姓を賜わり,正保1 (44) 年会津 23万石を領し,4代将軍家綱を補佐した。元禄9 (96) 年会津松平氏となった。また,上総飯野の保科氏は正直の3男正貞を祖とし,慶安1 (48) ~明治4 (1871) 年まで続いた。ともに明治にいたり,子爵を授けられた。

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