改訂新版 世界大百科事典 「偽ドミトリー」の意味・わかりやすい解説
偽ドミトリー (にせドミトリー)
Lzhedmitrii
ロシアの皇帝イワン4世(雷帝)の末子ドミトリー(1582-91)の名を僭称(せんしよう)した人物。1世と2世がいる。
1世(?-1606)はチュドフ修道院を逃亡した補祭グリゴリー・オトレピエフであったと考えられているが,彼はポーランドで王子ドミトリーであると名のりをあげる。そしてモスクワ,ポーランド両国政府に不満をもつ多数の者に支えられて,1604年秋モスクワ領内に侵入する。ロシア国内では,これに呼応して各地で農民が蜂起し,政府軍の内部でも寝返りや逃亡が続出する。これがロシア史上の〈スムータ(動乱時代)〉の始まりであった。05年4月,動乱の中でロシア皇帝ボリス・ゴドゥノフが死に,その跡を継いだフョードル2世が貴族たちの策謀により殺された後,同年6月偽ドミトリーが帝位に迎えられる。しかし即位後まもなく彼は声望を失い,翌年5月モスクワの反ポーランド人蜂起の中で殺害された。
偽ドミトリー2世(?-1610)は,1世が〈奇跡的に〉助かったといううわさの中で,ポーランドとの国境に現れてモスクワを目ざす。モスクワ占領には失敗するが,08年夏から10年春の間,その近郊トゥシノに本営を構えて政府を脅しつづけた。そして結局はポーランド国王に見捨てられて根拠地トゥシノから逃亡し,10年の末に仲間の手によって命を断たれた。
一時的にせよ,2人の偽ドミトリーが多くの支持を得たことは,大きな意味をもつ。彼らの成功の背景には,ロシアへの侵入と干渉をもくろむポーランドの野望があり,農奴制の強化を進める政府に対するロシア民衆の反抗があった。〈よい皇帝〉への民衆の幻想の根づよさ,士族優遇政策をとったボリス・ゴドゥノフ政権に対する貴族の反発の根ぶかさなど,このできごとは多くのことを物語っている。
→スムータ
執筆者:石戸谷 重郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報