光定(読み)こうじょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「光定」の意味・わかりやすい解説

光定
こうじょう
(779―858)

平安初期の天台宗の僧。伊予国(愛媛県)風早(かざはや)の出身。通称別当(べっとう)大師俗姓は贄(にえ)氏。早く両親を亡くし、京都に学び、比叡山(ひえいざん)の最澄(さいちょう)に師事した。810年(弘仁1)天台宗の年分度者(ねんぶんどしゃ)として宮中で得度し、812年東大寺戒壇で受戒した。また景深(けいじん)(生没年不詳)から菩薩戒(ぼさつかい)を、空海から密教灌頂(かんじょう)を受けた。814年、興福寺に赴き義延(ぎえん)と対論。嵯峨(さが)天皇の信任厚く、勅により宮中に入り、818年以後は最澄の大乗菩薩戒壇建立運動を助け、朝廷との交渉に尽くした。最澄の没後7日目にその勅許を得、1年後の822年にこれを実現させた。838年(承和5)に伝燈(でんとう)大法師位に上る。著書に『伝述一心戒文』3巻がある。

[木内堯央 2017年7月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「光定」の解説

光定

没年:天安2.8.10(858.9.20)
生年:宝亀10(779)
平安前期の天台宗の僧。伊予国(愛媛県)の人。俗姓贄氏。比叡山に入って最澄の弟子となり,また義真から『摩訶止観』を学んだ。弘仁1(810)年正月の宮中での金光明会に際して得度し,同3年東大寺で受戒した。興福寺や宮中で宗論を討議し,嵯峨天皇や最澄の寵遇を受け,空海から密教の灌頂を授けられた。最澄の悲願であった延暦大乗戒壇の設立がその没後7日目に許可されたのは光定の尽力によるものであり,天台僧の国講師,読師への任用も許可されるなど,朝廷に働きかけて天台教団の確立に努めた。斉衡1(854)年延暦寺別当に任じられる。<著作>『伝述一心戒文』

(本郷真紹)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「光定」の解説

光定 こうじょう

779-858 平安時代前期の僧。
宝亀(ほうき)10年生まれ。天台宗。最澄,義真に師事。弘仁(こうにん)3年東大寺で受戒し,景深に律学をまなび,さらに空海から灌頂(かんじょう)をうける。最澄をたすけ,延暦(えんりゃく)寺の大乗戒壇の設立につくした。仁寿(にんじゅ)4年同寺別当。天安2年8月10日死去。80歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俗姓は贄(にえ)。通称は別当大師。著作に「伝述一心戒文」など。

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