日本歴史地名大系 「光明寺城跡」の解説
光明寺城跡
こうみようじじようあと
「佐伯郡誌」によれば、康正二年(一四五六)厳島社神主藤原教親が五日市に城を築き武田信賢の神領への進出を拒んだと記すが、不詳。「房顕覚書」の永正一二年(一五一五)の記事に「羽仁美濃守、野間四郎ヲ契約候て、浅沼各被成合力警固船百艘斗にて、五日市ノ永明院宮崎山ヲ城ニコシラヘ楯籠処ヲ、(中略)十一月十二日未明ニ、永明院、高木木工助、中村兵庫其外五日市小方衆十四五人討死ス」とあり、「永明院宮崎山」は当城のことと推定される。
光明寺城跡
こうみようじじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報