光明寺城跡(読み)こうみようじじようあと

日本歴史地名大系 「光明寺城跡」の解説

光明寺城跡
こうみようじじようあと

[現在地名]五日市町五日市二丁目

かめ山とよぶ標高約二〇メートルの小丘にある。五日市城・幸崎こうさき(高崎)城・亀山城などともいう。もとは小丘が二つ並んでいたが、現在は一方が掘崩されて宅地化している。一段高くなった壇が認められ、櫓などの跡かと推定される(五日市町誌)

佐伯郡誌」によれば、康正二年(一四五六)厳島社神主藤原教親が五日市に城を築き武田信賢の神領への進出を拒んだと記すが、不詳。「房顕覚書」の永正一二年(一五一五)記事に「羽仁美濃守、野間四郎ヲ契約候て、浅沼各被成合力警固船百艘斗にて、五日市ノ永明院宮崎山ヲ城ニコシラヘ楯籠処ヲ、(中略)十一月十二日未明ニ、永明院、高木木工助、中村兵庫其外五日市小方衆十四五人討死ス」とあり、「永明院宮崎山」は当城のことと推定される。


光明寺城跡
こうみようじじようあと

[現在地名]都賀町家中

光明寺境内を遺構とする中世の城跡。西隣の小学校敷地も城跡であったとされることから、複郭式であったと推定される。確認できる規模は、土塁に囲まれた東西約五五メートル・南北約七九メートルで、外郭部分を推定すると東西約一二〇メートル・南北約一七五メートルに及ぶ。土塁の高さは比高一・五―三・六メートルで、北東部には櫓が築かれていたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android