デジタル大辞泉
「亀山城」の意味・読み・例文・類語
かめやま‐じょう〔‐ジヤウ〕【亀山城】
三重県亀山市にあった城。天正18年(1590)岡本宗憲が築城。天守閣は寛永9年(1632)三宅氏の時代に誤って取り壊された。多聞櫓のみ現存。
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かめやま‐じょう‥ジャウ【亀山城】
- 三重県亀山市にあった平山城。文永年間(一二六四‐七五)以後約四〇〇年関氏の居城。天正一八年(一五九〇)岡本宗憲が新しく築城。のち板倉・松平・三宅氏を経て石川氏のとき廃藩によって取りこわされ、現在石塁、櫓(やぐら)などが残る。胡蝶城。
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かめやまじょう【亀山城〈三重県〉】
三重県亀山市にあった梯郭式の平山城(ひらやまじろ)。同県文化財(多聞櫓(たもんやぐら))。江戸時代には亀山藩〈伊勢国〉の藩庁が置かれた城。松阪城(松阪市)を築いて松ヶ島城から居城を移し、城下町を移転させた蒲生氏郷(がもううじさと)は1590年(天正18)、豊臣秀吉の仕置きにより会津に転封された。それにともない、織田信長・信孝、豊臣秀吉に仕えた岡本良勝が亀山に入封した。古くから東海道の宿場町として、また北伊勢の交通の要衝として知られた亀山には、関氏が築いた若山城(亀山古城とも、亀山市)があったが、良勝は新たに亀山城を築き、若山城から居城を移した。その後、良勝は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)として参戦して東軍(徳川方)に降伏して自刃したことから、関一政が初代の伊勢亀山藩主として入封した。1611年(慶長16)、一政は伯耆黒坂5万石に転封となり、松平(奥平)忠明が三河の宇利城(作手(つくで)城とも。愛知県新城市)から5万石で入封、その後天領(幕府直轄領)となった。間もなく伊勢亀山藩は復活するが、三宅氏、本多氏、石川氏、板倉氏と城主(藩主)が目まぐるしく変わったのち、1744年(延享1)に石川総慶(ふさよし)が入封し、以降、石川氏が代々城主として明治維新を迎えた。全国に亀山城を名乗る城は多い。このため、江戸時代初頭に丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴の間違いにより、天守を取り壊されるという事故が起こっている。1636年(寛永13)、城主の本多俊次により大改修が行われた際に、天守を失った天守台に多聞櫓が築かれた。また、江戸時代には亀山城は上洛する将軍の宿所の役割を果たす城でもあった。宿所には本丸が当てられ、家康、秀忠、家光などが本丸を宿所として利用した。このため、藩主は二の丸を居館としていた。1873年(明治6)の廃城令により、ほとんどの構造物が取り壊されたが、天守台の多聞櫓が現存している。この櫓は三重県で唯一現存する城郭建造物として、同県文化財となっている。このほか、城跡には堀や石垣などの遺構が残っている。2007年(平成19)4月15日に発生した三重県中部地震により天守台の石垣の一部が崩落したが、この崩落箇所は1972年(昭和47)の台風被害の補修箇所で、江戸時代初めごろに穴太衆(あのうしゅう)によって築かれた石垣部分にはいっさい被害はなかった。また、二の丸御殿の玄関が同市内の遍照寺の本堂として移築され現存している。さらに、周辺の発掘で発見された石坂門の根石が歴史博物館前に移設されている。JR関西本線・紀勢本線亀山駅から徒歩10~15分。◇粉蝶(こちょう)城ともよばれる。別名を含めると、亀山城は全国に10以上あるため、これらと区別するため伊勢亀山城とよばれることもある。
かめやまじょう【亀山城〈愛知県〉】
愛知県新城(しんしろ)市(旧南設楽郡作手(つくで)村)にあった室町~戦国時代の山城(やまじろ)。戦国時代に山家三方衆と呼ばれていた奥三河の土豪の一人、奥平氏の居城。同県北東部の山間部、作手盆地南東部に位置する比高20mほどの丘に築かれていた。天授年間(1375~80年)に、上野国甘楽郡奥平郷から作手地方に移住した奥平貞俊は初め川尻城を居城としていたが、1424年(応永31)に亀山城を築き、居城を移した。以後、作手奥平氏の居城となった。戦国時代、同城を本拠とする作手奥平氏は東三河の有力勢力の山家三方衆の一つに数えられ、駿河・遠江(とおとうみ)の今川氏、三河の松平氏(のちの徳川氏)、尾張の織田氏などに従属して生き延びることになった。甲斐武田氏の三河侵攻が活発化した元亀年間(1570~73年)、城主の奥平貞昌(信昌)は武田氏に与したことから、亀山城は武田氏の三河侵攻の拠点となった。しかし、貞昌は1573年(天正1)に武田氏を離れて徳川家康に臣従し、古宮城(新城市)の武田勢を破り、のちに貞昌は家康により長篠城(新城市)の城主に抜擢されている。亀山城は主要な城でなくなったが、そのまま存続し、関ヶ原の戦いの後の1602年(慶長7)、信昌の四男松平忠明が1万7000石で作手に入封して同城に入城、作手地方の統治の拠点となった。しかし、忠明は1610年(慶長15)、伊勢国(現三重県)に国替えとなり、亀山城(三重県亀山市)に移ったため、城は元和年間(1615~23年)ごろに廃城となった。城跡は現在、公園や山林になっている。城山の頂上付近が公園として整備され、同公園から山腹の山林に分布する土塁や曲輪(くるわ)、空堀などの遺構の保存状態は比較的良好で、当時の縄張りを残している。城跡近くには奥平氏の屋敷群と推定されている場所もあり、城下の岡崎街道沿いには短冊形の地割跡も確認されている。JR飯田線新城駅から高里行き豊鉄バス・清岳下車後、徒歩約5分。◇作手城とも通称されている。
かめやまじょう【亀山城〈京都府〉】
京都府亀岡市にあった平山城(ひらやまじろ)。江戸時代の亀山藩〈丹波国〉の藩庁が置かれた城である。1577年(天正5)ごろ、丹波国を制圧した明智光秀が同国の統治の拠点として中世の砦跡に築いた城である。光秀は1582年(天正10)に京都の本能寺に主君の織田信長を攻める本能寺の変を起こしたが、その後、間もなく山崎の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れ、居城の坂本城(滋賀県大津市)に向かう途中に討ち死にした。その後、亀山城は天下統一を果たした秀吉の重要な拠点の一つとなり、一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥)・豊臣秀俊(小早川秀秋)などが入城した。江戸時代になると、徳川家康も、この城を重要視し、1609年(慶長14)に譜代大名の岡部長盛を丹波亀山藩主に任じて入城させ、西国大名に命じて、天下普請による亀山城の大修築を行った。このとき、多くの近世城郭を手がけた藤堂高虎が縄張りを行い、翌1610年(慶長15)に5重の天守を持つ城として完成した。1748年(寛延1)には形原松平氏が入城し、同氏の居城として明治維新を迎えた。1877年(明治10)、明治政府は亀山城の廃城処分を決定し、その後、城内の建物は市町村に払い下げされた。城跡は放置され荒廃していたが、1919年(大正8)に宗教法人大本が購入して現在に至っている。城跡には天守台・石垣・堀・土塁などの遺構が残っているが、改変が進んでいる。新御殿門(長屋門)は市立千代川小学校に移築され現存している。JR嵯峨野線亀岡駅から徒歩約10分。ただし、城跡は宗教法人大本の敷地内にあり、見学には許可が必要である。◇亀岡城、亀宝城ともよばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の亀山城の言及
【亀岡[市]】より
…山陰道の要地で丹波の国府や国分寺(跡は史跡)が置かれ,古代の丹波の中心地であった。大堰(おおい)川南岸の河岸段丘上にひろがる中心市街は,天正年間(1573‐92)に明智光秀が築いた亀山城の城下町として発展し,現在も城下町の風情がよく残っている。1869年(明治2)伊勢の亀山と区別するため亀山を亀岡と改称。…
【亀山】より
…口丹波の交通の要地。地名の起りは1579年(天正7)明智光秀が築城して亀山城と名付けたことによる。城郭は大堰川右岸の台地にあり,城下町はその南部に建設されたが,人家を移住させた柏原(かせばら),三宅,古世などの9ヵ村を母体に,惣外堀内に取り込んだ城下町16町と城下外の4町で構成された。…
※「亀山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」