日本歴史地名大系 「八幡八郷」の解説
八幡八郷
やわたはちごう
なお八郷域は
初見は慶長五年九月一九日付の徳川家康禁制(「石清水八幡宮史」所引)で、その宛名に「八幡八郷」とある。また同一五年九月二五日付の家康朱印条目(同書)には「右八幡八郷之事、検地令免許、守護不入之上者、神事霊地等不可有油断、諸事社
内四郷は、正応二年(一二八九)七月一五日付の安居頭人差定(「榊葉集」所引)に、常盤郷住人内膳三郎子・科手郷住人郷房太郎中務入道孫・金振郷住人新次郎・山路郷住人宮内新太郎先生とみえ、中世初期から八幡宮境内四郷として成立していた。
外四郷は、応永九年(一四〇二)七月一一日付の山城守護代遵行状(「石清水八幡宮史」所引)に「石清水八幡宮山城国四ケ郷内美豆・河口二ケ郷」とあることや、文明二年(一四七〇)八月一一日付の妙禅奉書(同書)に「美豆河口両郷御年貢以下事、為四郷被執申候之間」とあることから、室町時代に八幡宮外四郷として形成されたと考えられる。なお寛文九年(一六六九)の社務田中要清の口書案(石清水文書)は「八幡庄外四郷と申候者、生津、際目、美豆、河口四ケ村ニ而候」と記す。
〔安居神事〕
八郷は石清水八幡宮の社務当職によって支配されたが、他の寺社領との大きな相違点は
慶長一五年九月二五日付の家康朱印条目には、「先年検地免許之神領之内、為地下人之役、安居之神事相勤之間、田畠等他所之者、并坊寺江売候者、相改可棄破之事、八幡之神領之内令知行、他所ニ居住之者是又可棄破之事」とあって、八幡在住の地下人が安居神事を勤めることが重要視され、その役料として朱印地が与えられたものであることが示されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報