日本歴史地名大系 「八橋城跡」の解説
八橋城跡
やばせじようあと
八橋集落の南西、標高四五メートルほどの低丘陵にあった城跡。現在はJR山陰本線によって切断されているが、南方の丘陵も跡地と考えられる。丘陵西端の最高所に主郭を置き、その東側に連続した二段の郭を逆L字状に配していた。最下段の郭の縁辺部には土塁が残り、西側裾部には石垣が築かれている。「伯耆民談記」によると、大手を東として南側と北側に堀が設けられていたというが、現在は失われている。同書などによれば室町時代には「大江ノ城」とも称し、行松氏が支配していたといい、また大永四年(一五二四)には守護山名氏に代わって尼子氏の、永禄年間(一五五八―七〇)には毛利方の支配下に置かれたというが、この間の経緯は不詳。
永禄七年と推定される九月三日の毛利元就書状(閥閲録、以下断らない限り同書)に「八橋城衆」とみえ、山名祐豊攻撃にあたっていた小寺元武の要請により、元就は当城へとりあえず鉄砲を送っている。翌八年四月、元就は山田民部丞(満重)の守る
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報