朝日日本歴史人物事典 「山中幸盛」の解説
山中幸盛
生年:天文14?(1545)
戦国時代の武将。父は尼子経久の家臣山中三河守満幸,母は立原佐渡守綱重の娘という。通称鹿介(鹿之介は誤り)。出生と幼時期については種々伝えられているが未詳。一時亀井氏の養子となるが,のち兄甚太郎に代わって山中氏の家督を継ぐ。永禄5(1562)年の毛利氏の出雲(島根県)侵入以後,尼子氏の武将として活躍。同9年,出雲富田(月山)城が開城したのちは,浪人となって上洛,立原久綱らと共に主家尼子家の再興に奔走する。同11年,京都東福寺にいた尼子勝久を還俗させて擁立,隠岐から出雲に侵入して新山城に拠り,豊後大友氏と連携して,一時出雲の大半を回復。しかし,毛利氏の反攻にあい,元亀1(1570)年出雲布部山(広瀬町),翌年伯耆末吉城(鳥取県大山町)などで敗北。吉川元春に捕らえられ,尾高泉山城(米子市)に幽閉されたが脱走,上洛して織田信長を頼り,以後織田・毛利の対立のうちに活路を見いだそうとする。天正1(1573)年,信長の援助を得て因幡に侵入,鳥取城を落とすなど再び吉川勢と戦ったが,同4年若桜鬼城(鳥取県若桜町)を落とされて京都に逃れた。翌年羽柴(豊臣)秀吉の中国経略に従い,勝久,久綱らと共に播磨佐用郡上月城を守ったが,毛利軍の攻撃にあって翌年7月2日落城。勝久は自刃,鹿介は再び捕らえられ,安芸毛利輝元のもとに送られる途中,備中阿井の渡(岡山県高梁市落合)で殺された。 以上の生涯は,自ら艱難辛苦を求めて主家再興に尽くした勇士として,近世以後大衆の人気を集めてきた。特に,寛永2(1625)年の小瀬甫庵『甫庵太閤記』が三日月に祈る鹿介像を提示して以来,頼山陽の鹿介を詠んだ漢詩の影響などもあって,史実とは関係なくこういった鹿介像が独り歩きをし,昭和11(1936)年に至り国定教科書の「三日月の影」に登場する鹿介は,まさに「忠君の士」としてのそれであった。<参考文献>米原正義編『山中鹿介のすべて』,藤岡大拙『山中鹿介紀行』
(井上寛司)
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