六尾反射炉跡(読み)むつおはんしやろあと

日本歴史地名大系 「六尾反射炉跡」の解説

六尾反射炉跡
むつおはんしやろあと

[現在地名]大栄町六尾

六尾集落の北部、由良ゆら川左岸段丘上に位置する。鳥取藩が銃砲鋳造のために建設した西洋式反射炉。瀬戸せと村の武信潤太郎(もとは新九郎)を反射竈御用懸として若一王子権現(現在は西園の建速神社)の跡地五反歩余の地に建設された。安政四年(一八五七)四月に着工され、同年九月に反射炉二基が完成。総長は六丈五尺(地上五丈・地下一丈五尺)で、耐火煉瓦にはまがり(現北条町)の良質の粘土が使われた。一基当りの一回の銑鉄生産量は四〇〇貫であった(大栄町誌)

武信潤太郎は瀬戸村の大庄屋武信佐五右衛門家の分家である武信長三郎家の養子で、美作たね(現岡山県湯原町)の出身とされ、肥前長崎で高島秋帆、肥後熊本で池部啓太、周防岩国いわくにで有坂淳蔵に砲術および火薬の製造技術を学んだという(「武信潤太郎家譜」藩史)。郡代田村貞彦が反射炉による鋳造の経験をもつ潤太郎をかねてより計画のあった反射炉建設に起用するよう藩主池田慶徳に上申、潤太郎は安政三年に苗字帯刀を許され反射竈御用懸に任じられた(「在方諸事控」など)。多大の借金を抱えていた藩は一方、安政元年藩に五千両を献じた武信佐五右衛門(同家は天保六年に日野郡鉄山融通会所出銀座を任命され苗字帯刀を許されていた)を郷士に取立て、武器調達御用に任じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「六尾反射炉跡」の解説

六尾反射炉跡

(鳥取県東伯郡北栄町六尾)
推薦産業遺産指定の地域遺産〔20号〕。
武信潤太郎が安心院反射炉から技術導入し、1857(安政4)年に操業を開始した。1870(明治3)年撤去。2双4炉の当時日本最大級の銑鉄溶解能力を備えていた

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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