内川村(読み)うちかわむら

日本歴史地名大系 「内川村」の解説

内川村
うちかわむら

[現在地名]矢祭町内川

関岡せきおか村の西、久慈くじ川および同川支流の矢祭川流域の丘陵山地に立地。字平都へぐりに縄文時代の遺跡、字遠前とおまえ中世館日向たてひなた館跡がある。正保郷帳に村名がみえ高五六三石余、うち田一九七石余・畑三六五石余。元禄郷帳では高五三三石余、枝郷の平畑たいらばたけ村の高一五石余、高地原たかちばら村の高六七石、真木野まぎの村の高五九石余、なのめ(名能目)村の高二五石。時期は不明だが、当村のほぼ南半分(元禄郷帳の真木野村・高地原村)真木野村として分立した(ただし天保郷帳には内川村一村で載る)


内川村
うちかわむら

[現在地名]戸倉町内川

南は下戸倉村、西は千本柳せんぼんやなぎ村、北は寂蒔じやくまく村に接し、往古の千曲川堆積地である。近くに今も小船山こぶねやま集落があるので、「和名抄」の船山郷の一部と考えられる。

内川村の初見は慶長一五年(一六一〇)九月の海野隠岐守黒印状(諏訪文書)で、この時内川村二三七石余と粟佐・上野・寂蒔村等が、海野隠岐守によって、石川武兵衛に預けられている。その後元和八年(一六二二)の真田氏領地目録にも内川村がみえ、寛永元年(一六二四)の「大鋒院殿御事蹟稿」の中では、「高拾壱石 内川村之内」を真田信之によって、家臣の金井渡右衛門の知行地として宛行われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android