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真田信之 さなだ のぶゆき

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

真田信之 さなだ-のぶゆき

1566-1658 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)9年生まれ。真田昌幸(まさゆき)の長男。天正(てんしょう)18年上野(こうずけ)(群馬県)沼田城主。関ケ原の戦いでは,父,弟幸村とはなれて東軍につく。父の居城信濃(しなの)(長野県)上田城を攻めた功などで,西軍についた父と弟の助命をゆるされ,慶長6年上田城主をかねる。元和(げんな)2年沼田領を長男真田信吉にゆずり上田城にうつるが,8年転封となり信濃松代(まつしろ)藩主真田家初代。10万石。万治(まんじ)元年10月17日死去。93歳。初名は信幸。
【格言など】常に法度(はっと)の多きは宜しからず

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朝日日本歴史人物事典の解説

真田信之

没年:万治1.10.17(1658.11.12)
生年:永禄9(1566)
安土桃山・江戸前期の武将。名は初め信幸,通称は源三郎,伊豆守。上野国沼田城主真田昌幸の子。天正10(1582)年に駿府の徳川家康の許へ人質として送られる。家康の武将本多忠勝の娘をめとり,文禄2(1593)年に沼田城主となり伊豆守に叙任。慶長5(1600)年の関ケ原の戦に際して,父昌幸と弟の幸村(信繁)は石田三成方に与したが,信之はかねてからの縁により徳川方に属し,中山道を西上した徳川秀忠に従軍して昌幸,幸村の籠城抵抗する信州上田城を攻撃した。しかし上田城を落とすことはできず,またこの上田攻めに時日を要したために徳川秀忠軍は関ケ原の戦にも遅れたのであった。戦後,信之は父弟の助命を請い,その年来の忠勤により許された。翌年,上田城に移り,沼田と合わせて9万5000石を領した。慶長19,元和1(1615)年の大坂の陣にはいずれも出陣し戦功があった。元和8年には松代に移封され,高井,水内,埴科,更級4郡で10万石,沼田領3万石の計13万石を領した。これより藩政の整備,新田開発,城下町建設に努め,松代藩の基礎を固めた。90歳を超える長寿をうけたが,寛永末ごろには往時を知る数少ない戦国武将のひとりとして,将軍徳川家光をはじめ世の人々の尊敬を集めていた。明暦2(1656)年に隠居して松代領を嗣子信政に,沼田領を嫡孫の信利に譲った。のち剃髪して一当斎と称した。墓は松代長国寺の真田家廟所。<参考文献>田中誠三郎『真田一族と家臣団』

(笠谷和比古)

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世界大百科事典 第2版の解説

さなだのぶゆき【真田信之】

1566‐1658(永禄9‐万治1)
安土桃山・江戸初期の武将。上野国沼田城主真田昌幸の子。初名信幸,通称源三郎,伊豆守。1593年(文禄2)沼田城主となる。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に,父や弟幸村は西軍にくみしたが,信之は徳川秀忠の先鋒として父の居城,信州上田城を攻めた。この功もあり翌年上田城に移り9万5000石を領する。22年(元和8)に松代に移封され,旧領とともに13万5000石を領し,松代藩の基礎を固めた。【笹本 正治】

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大辞林 第三版の解説

さなだのぶゆき【真田信之】

1566~1658) 安土桃山・江戸初期の武将。昌幸の長男。初代松代藩一〇万石藩主。徳川家康に出仕し、沼田城主となる。関ヶ原およびそれ以後の戦いでは徳川方に属し、戦後父の旧領上田に移り、のち松代に移封されて真田家を存続させた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

真田信之
さなだのぶゆき

[生]永禄9(1566).上野,沼田
[没]万治1(1658).10.17. 松代
江戸時代初期の武将。信濃上田城主真田昌幸の長男。通称は源三郎,初めは信幸といった。号は一当斎。慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いで,父昌幸と弟信繁 (幸村) が石田三成方についたのに対し,信之は徳川家康方についた。父の居城である上田城を攻め,戦後自分の功によって父と弟の助命を乞い許された。同 19年大坂の陣にも出陣し,夏の陣では天王寺表に戦って功があった。元和8 (22) 年にそれまで領していた上田から隣接の松代に移り,松代で 10万石と旧領上野沼田を合せて 13万石を与えられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

真田信之
さなだのぶゆき
(1566―1658)

安土(あづち)桃山時代・江戸初期の武将。昌幸(まさゆき)の長男。初め信幸。1585年(天正13)昌幸が信濃(しなの)(長野県)上田城に籠城(ろうじょう)したとき、城外国分寺(こくぶんじ)付近で徳川軍を迎撃して大いに破り、勇名をはせた。89年、徳川家康に出仕し、その将本多忠勝(ただかつ)の女(むすめ)をめとり、ついで上野(こうずけ)(群馬県)沼田(ぬまた)城主となった。1600年(慶長5)会津出陣を命ぜられ、父昌幸、弟信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))とともに下野(しもつけ)(栃木県)犬伏(いぬぶし)に陣しているとき、石田三成(みつなり)の密使が訪れ、父と弟は石田方について徳川の陣を離れたが、信之はただちに秀忠(ひでただ)の本陣へ駆けつけて異心のないことを誓った。関ヶ原の戦いののち、上野沼田領3万石のほか父の旧領9万6000石を与えられて上田城に移り、ついで22年(元和8)松代(まつしろ)に移封され10万石を領した。57年(明暦3)に隠居し、松代10万石を次子信政(のぶまさ)に、沼田3万石を庶長子信吉(のぶよし)の子信利(のぶとし)に与え、翌年93歳の高齢で死んだ。若いころは武勇に長じていたが、家康に属してからは隠忍自重、よく真田家を保った。[小林計一郎]

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世界大百科事典内の真田信之の言及

【上田藩】より

…信濃国(長野県)上田に藩庁を置いた譜代中藩。この地方出身の土豪真田昌幸が,1584年(天正12)上田に城を築き,翌年豊臣秀吉に随身することによって領主の地位を安定させた。これが上田藩の起りである。関ヶ原の戦には,昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に属し,中山道を進もうとする徳川秀忠軍3万余を釘づけにして武名をあげたが,戦後は紀州の九度山に幽閉され,上田領は長男信之に与えられた。信之は父弟と分かれ,東軍に従って功があったからである。…

【真田氏】より

…信濃国小県(ちいさがた)郡を根拠にした豪族。清和源氏海野(うんの)氏流といわれる。1400年(応永7)の大塔合戦で戦った者の中に実田(さなだ)氏が見られる。戦国時代,真田幸隆は甲斐の武田信玄に属し,武田氏の信濃攻略に大きな役割を果たした。幸隆のあとは信綱が継ぎ,信玄,勝頼に仕えたが,1575年(天正3)の長篠の戦で弟昌輝とともに討死した。家督を継いだ三男昌幸は,武田氏滅亡後も後北条,徳川,上杉らの勢力の間をぬって小県,上野国沼田の領地を確保した。…

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