真田信之(読み)さなだのぶゆき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「真田信之」の意味・わかりやすい解説

真田信之
さなだのぶゆき
(1566―1658)

安土(あづち)桃山時代・江戸初期の武将。昌幸(まさゆき)の長男。初め信幸。1585年(天正13)昌幸が信濃(しなの)(長野県)上田城籠城(ろうじょう)したとき、城外国分寺(こくぶんじ)付近で徳川軍を迎撃して大いに破り、勇名をはせた。89年、徳川家康に出仕し、その将本多忠勝(ただかつ)の女(むすめ)をめとり、ついで上野(こうずけ)(群馬県)沼田(ぬまた)城主となった。1600年(慶長5)会津出陣を命ぜられ、父昌幸、弟信繁(のぶしげ)(幸村(ゆきむら))とともに下野(しもつけ)(栃木県)犬伏(いぬぶし)に陣しているとき、石田三成(みつなり)の密使が訪れ、父と弟は石田方について徳川の陣を離れたが、信之はただちに秀忠(ひでただ)の本陣へ駆けつけて異心のないことを誓った。関ヶ原戦いののち、上野沼田領3万石のほか父の旧領9万6000石を与えられて上田城に移り、ついで22年(元和8)松代(まつしろ)に移封され10万石を領した。57年(明暦3)に隠居し、松代10万石を次子信政(のぶまさ)に、沼田3万石を庶長子信吉(のぶよし)の子信利(のぶとし)に与え、翌年93歳の高齢で死んだ。若いころは武勇に長じていたが、家康に属してからは隠忍自重、よく真田家を保った。

[小林計一郎]


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改訂新版 世界大百科事典 「真田信之」の意味・わかりやすい解説

真田信之 (さなだのぶゆき)
生没年:1566-1658(永禄9-万治1)

安土桃山・江戸初期の武将。上野国沼田城主真田昌幸の子。初名信幸,通称源三郎,伊豆守。1593年(文禄2)沼田城主となる。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に,父や弟幸村は西軍にくみしたが,信之は徳川秀忠先鋒として父の居城,信州上田城を攻めた。この功もあり翌年上田城に移り9万5000石を領する。22年(元和8)に松代に移封され,旧領とともに13万5000石を領し,松代藩の基礎を固めた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「真田信之」の意味・わかりやすい解説

真田信之
さなだのぶゆき

[生]永禄9(1566).上野,沼田
[没]万治1(1658).10.17. 松代
江戸時代初期の武将。信濃上田城主真田昌幸の長男。通称は源三郎,初めは信幸といった。号は一当斎。慶長5 (1600) 年の関ヶ原の戦いで,父昌幸と弟信繁 (幸村) が石田三成方についたのに対し,信之は徳川家康方についた。父の居城である上田城を攻め,戦後自分の功によって父と弟の助命を乞い許された。同 19年大坂の陣にも出陣し,夏の陣では天王寺表に戦って功があった。元和8 (22) 年にそれまで領していた上田から隣接の松代に移り,松代で 10万石と旧領上野沼田を合せて 13万石を与えられた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「真田信之」の解説

真田信之 さなだ-のぶゆき

1566-1658 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)9年生まれ。真田昌幸(まさゆき)の長男。天正(てんしょう)18年上野(こうずけ)(群馬県)沼田城主。関ケ原の戦いでは,父,弟幸村とはなれて東軍につく。父の居城信濃(しなの)(長野県)上田城を攻めた功などで,西軍についた父と弟の助命をゆるされ,慶長6年上田城主をかねる。元和(げんな)2年沼田領を長男真田信吉にゆずり上田城にうつるが,8年転封となり信濃松代(まつしろ)藩主真田家初代。10万石。万治(まんじ)元年10月17日死去。93歳。初名は信幸。
【格言など】常に法度(はっと)の多きは宜しからず

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世界大百科事典(旧版)内の真田信之の言及

【上田藩】より

…信濃国(長野県)上田に藩庁を置いた譜代中藩。この地方出身の土豪真田昌幸が,1584年(天正12)上田に城を築き,翌年豊臣秀吉に随身することによって領主の地位を安定させた。これが上田藩の起りである。関ヶ原の戦には,昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に属し,中山道を進もうとする徳川秀忠軍3万余を釘づけにして武名をあげたが,戦後は紀州の九度山に幽閉され,上田領は長男信之に与えられた。信之は父弟と分かれ,東軍に従って功があったからである。…

【真田氏】より

…信濃国小県(ちいさがた)郡を根拠にした豪族。清和源氏海野(うんの)氏流といわれる。1400年(応永7)の大塔合戦で戦った者の中に実田(さなだ)氏が見られる。戦国時代,真田幸隆は甲斐の武田信玄に属し,武田氏の信濃攻略に大きな役割を果たした。幸隆のあとは信綱が継ぎ,信玄,勝頼に仕えたが,1575年(天正3)の長篠の戦で弟昌輝とともに討死した。家督を継いだ三男昌幸は,武田氏滅亡後も後北条,徳川,上杉らの勢力の間をぬって小県,上野国沼田の領地を確保した。…

※「真田信之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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