冷泉為村(読み)レイゼイタメムラ

デジタル大辞泉 「冷泉為村」の意味・読み・例文・類語

れいぜい‐ためむら【冷泉為村】

[1712~1774]江戸中期の歌人冷泉家中興の祖。霊元法皇から古今伝授を受けた。著「樵夫問答」など。

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精選版 日本国語大辞典 「冷泉為村」の意味・読み・例文・類語

れいぜい‐ためむら【冷泉為村】

  1. 江戸中期の歌人。冷泉為久の子。冷泉家中興の祖。霊元院から古今伝授をうけ、烏丸光栄に学んだ。柿本人麻呂・山部赤人の歌を理想とした。著「為村卿和歌」「冷泉大納言三百首」がある。声望があって、門人が多く、小沢蘆庵・石野広道・慈延などがいる。正徳二~安永三年(一七一二‐七四

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朝日日本歴史人物事典 「冷泉為村」の解説

冷泉為村

没年:安永3.7.28(1774.9.3)
生年:正徳2.1.28(1712.3.5)
江戸中期の歌人。29日没説は発喪の日による。前権大納言為久の子。元文3(1738)年従三位。延享1(1744)年参議。宝暦9(1759)年には正二位権大納言にして民部卿を兼ねる。祖父為綱・父為久の努力によって冷泉家が宮廷歌壇における地位を固めた時期に生まれ,天賦の才をもって次第に宮廷歌会に重きをなすようになる。実質的なデビューは享保6(1721)年の玉津島法楽月次御会で,10歳だった。12歳で霊元上皇の勅点を受け,同14年には宮廷歌会のほとんどに出詠する常連へと成長,早熟ぶりを示す。為久のほか,烏丸光栄や中院通躬らの指導を受け,彼らの死後は宮廷歌壇の第一人者として名声を得る。冷泉家が為綱以来幕府との関係強化に努めたのを受けて,関東の武家歌人を多く門弟として擁し,添削の精緻と巧みな指導で一門は急速に拡大した。門人一人ひとりの個性を見きわめたうえで,彼らの詠作意欲をかき立てるような批評を織り込むのに長じた。その点で子の為泰とは対照的であった。家集としては部類形式のものと雑纂形式のものが多く伝わる。歌論『樵夫問答』,聞書に宮部義正の『義正聞書』,萩原宗固の『冷泉宗匠家伺書』などがある。<参考文献>久保田啓一「冷泉家の人々」(『近世堂上和歌論集』)

(久保田啓一)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「冷泉為村」の解説

冷泉為村 れいぜい-ためむら

1712-1774 江戸時代中期の公卿(くぎょう),歌人。
正徳(しょうとく)2年1月28日生まれ。冷泉為久(ためひさ)の子。上冷泉家。元文3年従三位。のち正二位,権(ごんの)大納言兼民部卿。享保(きょうほう)6年霊元上皇より古今(こきん)伝授をうける。冷泉家中興の祖とされ,石野広通ら江戸の武家方をはじめ,小沢蘆庵(ろあん)ら多数の門人があった。安永3年7月29日死去。63歳。法名は澄覚。歌集に「冷泉為村卿家集」,歌論書に「樵夫問答」。

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367日誕生日大事典 「冷泉為村」の解説

冷泉為村 (れいぜいためむら)

生年月日:1712年1月28日
江戸時代中期の歌人・公家
1774年没

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