百科事典マイペディア 「冷泉家」の意味・わかりやすい解説
冷泉家【れいぜいけ】
→関連項目飛鳥井家|東下り|十六夜日記|歌学|玉葉和歌集
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中世以来の歌道家。御子左(みこひだり)家の一流。藤原為家の子の冷泉為相(ためすけ)が,定家・為家の住んだ跡に住み,以後冷泉の号を継承した。為相の曾孫の為之・持為のときに上冷泉・下冷泉に分かれ,上冷泉家が嫡流である。為相は,はじめ京極派にいたが,関東に居たことなどから武士を中心に関東に影響力をもった。歌風は,おのおの自得の風を詠み,学びやすきを学ぶ自由さがある一面,和歌の一派としてはとくに大きな流派性はなく,為兼のような二条派に対する歌風上の強硬な主張をしていない。連歌では為相の藤谷式目が重んじられた。冷泉派として,有力武将の今川貞世(了俊),東福寺の正徹(しようてつ)などを出し,中世後期の和歌や連歌に新風をもたらしている。二条家・京極家の断絶した中世後期は御子左家を担って蹴鞠・歌道家として,和学,とくに歌書の保存・収集にはげみ,江戸時代には為久・為村らの門流が大いに栄えて,現在に至っている。定家の《明月記》以下重要文化財級の貴重書に富むことはよく知られている。下冷泉家も続いており,藤原惺窩もその一門である。
執筆者:新井 栄蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
藤原氏の一族、御子左(みこひだり)家の分かれで、鎌倉後期から今日に至る。為家の子為相(ためすけ)(母は阿仏(あぶつ))を祖とする。彼が、藤原定家(ていか)から為家に伝えられた冷泉小路に面した家に住み、それが家名となったもの。俊成(しゅんぜい)・定家以来の跡を継いで歌道をもって家業とし、南北朝末期に宗家(そうけ)(嫡流)の二条家が、その前に京極(きょうごく)家が、それぞれ絶えてからは、歌道師範家として重要な役割を果たしてきた。為相・為秀・為邦・為尹(ためまさ)(「ためただ」とも。実は為邦の子)の4代を経て為之(ためゆき)、持為の代に上(かみ)冷泉(嫡流)、下(しも)冷泉の両家に分かれ、ともに現在に至る。前者は旧伯爵、後者は旧子爵。なお、江戸時代に上冷泉家から分かれた藤谷(ふじがやつ)家もある。上冷泉家では近世の為久・為村父子、下冷泉家では2代の政為(室町後期)がとくに歌人として重要で、藤原惺窩(せいか)は下冷泉家の出である。上冷泉家は俊成・定家以来の貴重な古典籍多数を伝えているが、先年来その全容を数百年ぶりに公開すべく、当主や専門家の手で調査が進められ、1981年(昭和56)財団法人冷泉家時雨亭(しぐれてい)文庫が設立され、研究活動を行っている。
[福田秀一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…その他,阿仏尼の《夜の鶴》,二条為世の《和歌庭訓》等,鎌倉期に書かれた〈歌論〉の数は多いが,文学的に見て意義の認められるものはほとんどない。為家の子の代で,二条家,京極家,冷泉(れいぜい)家と歌の家が三つに分裂し,以降,派閥争いが激化したために,〈歌論〉も本質を理論的に深めるという方向ではなく,派閥意識をあらわにして,他派を攻撃するケースが増えていったからである。たとえば《野守鏡(のもりのかがみ)》は作者未詳の歌論書であるが,二条派の立場に立って為兼を初めとする京極派を攻撃した書であったし,《延慶両卿訴陳状(えんきようりようきようそちんじよう)》と呼ばれる,《玉葉和歌集》の選者をめぐっての二条,京極両家の厳しい対決を伝える応酬もある。…
※「冷泉家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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