江戸中期の歌人。名は玄仲(はるなか)、通称は帯刀(たてわき)。観荷堂と号する。父はもと大和宇陀(やまとうだ)(奈良県)の藩主織田(おだ)家に仕えた小沢喜八郎実郡(実邦)(さねくに)。大坂で育ち、尾張(おわり)藩成瀬家(また竹腰家)の京都留守居役本庄勝命(ほんじょうかつな)の養子となり本庄七郎と称した。30歳ごろ冷泉為村(れいぜいためむら)に入門して歌道を学んだが、51歳ごろ破門される。35歳ごろ小沢氏に復姓。このころから鷹司輔平(たかつかさすけひら)に仕えたが、1765年(明和2)43歳のときに出仕を止められ、その後は歌道に専念する。享和(きょうわ)元年7月11日没。寛政(かんせい)期(1789~1801)京都地下(じげ)歌人四天王の一人に数えられ、伴蒿蹊(ばんこうけい)、上田秋成(あきなり)、本居宣長(もとおりのりなが)などと親交があった。門人には妙法院宮真仁(しんにん)法親王をはじめ小川布淑(ふしゅく)、前波黙軒(まえばもくけん)、橋本経亮(つねあきら)など多くの歌人がある。歌は心情を自然のまま技巧を凝らさずに詠出すべきであるとする「ただこと歌」の説を提唱する。これが、教えを受けた香川景樹(かげき)などによって、江戸後期の京坂地下歌壇の主流となる。家集に『六帖詠草(ろくじょうえいそう)』がある。歌論書に『ちりひぢ』『振分髪(ふりわけがみ)』『布留(ふる)の中道(なかみち)』がある。古典和歌の研究にも熱心で、多くの歌書の写本を所蔵していた。
[宗政五十緒]
大堰川(おほゐがは)月と花とのおぼろ夜にひとり霞(かす)まぬ波の音かな
『中野稽雪著『小沢蘆庵』(1951・私家版)』
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江戸中期の歌人。名は玄仲(はるなか),通称帯刀,別号観荷堂。尾張藩士の家に生まれる。藩主の京都屋敷留守役として早く京都に住んだ。堂上派歌人冷泉為村の門人となるが,破門され,一派を立てて〈ただごと歌〉を主張した。擬古派に対抗して,自然な感情を平易な語でうたう歌を唱道。《古今集》を尊重し,文芸の自律性を重視する姿勢は,香川景樹に継承されてゆく。歌集に《六帖詠草》,歌論書に《ふるの中道》《振分髪》がある。
執筆者:佐佐木 幸綱
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…古典観の相違は当然のことながら,歌の本質論の差異に基づいていた。さらには,《古今和歌集》を重んじた小沢蘆庵,香川景樹らがいた。景樹の歌論《新学異見(にいまなびいけん)》は真淵の《にひまなび》に異をとなえた〈歌論〉であって,〈歌は調ぶるものなり〉とあるように〈しらべ〉を重視し,〈理(ことわ)るものにあらず〉として理を排し,感情の解放を主張して,新風を開いたのだった。…
※「小沢蘆庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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