守田勘弥(読み)もりたかんや

精選版 日本国語大辞典 「守田勘弥」の意味・読み・例文・類語

もりた‐かんや【森田勘彌・守田勘彌】

  1. [ 一 ] 森田座の座元および歌舞伎俳優の名。一一世の時、森田を守田に改めた。
  2. [ 二 ] 一二世。明治期の興行師、作者。江戸の人。守田家の養子。明治五年(一八七二)他座に先がけて、森田座を市中の新富町に新築。政・財・学界の有力者と交わって、演劇改良運動を進め、劇場や観客制度の近代化、歌舞伎の地位向上に貢献した。作者としては、明治一九年河竹黙阿彌の門下となり、古河新水の名で作劇し、上演されたものも多い。弘化三~明治三〇年(一八四六‐九七

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改訂新版 世界大百科事典 「守田勘弥」の意味・わかりやすい解説

守(森)田勘弥 (もりたかんや)

守(森)田座の座元,太夫元,歌舞伎俳優。10世まで〈森田〉の字を用いた。(1)初世(?-1679?(延宝7?)) 坂東又九郎の次男。森田座の創設者森田太郎兵衛の養子となり,勘弥となる。1668年(寛文8)には河原崎座と合併興行し,森田勘弥,河原崎権之助,坂東又九郎と三名代で興行をした年もあった。初世の経歴については不明な点が多い。(2)2世(?-1734(享保19)) 坂東又次郎の子,又九郎の孫。初世没後,太夫元を相続,勘弥となる。役者も兼ね,小柄だが拍子事を得意とした。1699年(元禄12),弟に名を譲り,又左衛門となり,翌1700年に2世又九郎をつぎ座元となった。12年(正徳2)3世勘弥に又九郎の名を譲り,再び又左衛門を名のり,22年には弟の死により又九郎に戻り座元を勤めた。(3)3世(?-1722(享保7)) 坂東又次郎の子。1699年(元禄12)勘弥となる。1712年(正徳2)3世又九郎となった。(4)4世(?-1743(寛保3)) 2世勘弥の子。1712年(正徳2)勘弥となる。25年(享保10)ころから森田座は経済的困窮におちいり,34年から休座,再開できずに没した。(5)5世(?-1802?(享和2?)) 4世没後1744年(延享1)森田家の養子となり勘弥をつぎ,同年11月から森田座を再開した。51年(宝暦1)引退。(6)6世(1724-80・享保9-安永9) 狂言作者の初世中村重助の子。1751年(宝暦1)に5世勘弥の娘婿となり,勘弥をつぐ。74年引退した。(7)7世(?-1783(天明3)) 6世の長男。1774年(安永3)に勘弥となる。(8)8世(1759-1814・宝暦9-文化11) 5世勘弥の子。1783年(天明3)勘弥となる。89年(寛政1)から10年間,ついで1800年からも休座し,再開することができず,01年(享和1)座元を譲り,08年(文化5)再開場した公演で引退した。(9)9世(?-1838(天保9)) 8世の子。1801年(享和1)に勘弥となり,08年(文化5)に森田座を再開したが,その後も休座をくり返し,30年に引退した。(10)10世(?-1851(嘉永4)) 3世坂東三津五郎の子とも養子ともいう。1830年(天保1)に勘弥となり,33年に森田座を再開したが,37年再び休座し,再開できずに没した。(11)11世 4世坂東三津五郎の後名。1850年(嘉永3)に勘弥となり,56年(安政3)に森田座を再開し,58年に〈森田〉を〈守田〉と改めた。(12)12世(1846-97・弘化3-明治30) 1864年(元治1)に勘弥となり,72年(明治5)劇場を新富町に移し,近代的な機構・設備を採り入れた大劇場を建築した。75年新富座と名称を改め,文明開化の風潮にのって,歌舞伎の近代化につとめた。明治10年代には活歴物や西洋演劇の翻案劇を上演,また外人,皇族,高官などを観劇させて,歌舞伎に対する人々の認識を高めようとした。その頂点となるのが1887年井上馨邸に天皇を招いての天覧劇であった。しかし経済的な困窮はつきまとい,晩年は不遇であった。(13)13世(1885-1932・明治18-昭和7) 12世の三男。1901年新富座の12世追善公演で勘弥をついだ。古風な容姿で,《義経千本桜》の弥助,《廓文章》の伊左衛門などの和事の二枚目を得意としたが,戯曲に対する理解力がするどく,研究意欲をもち,大正年間の研究劇団文芸座を中心として演劇界に大きな功績を残した。(14)14世(1907-75・明治40-昭和50) 歌舞伎女優3世坂東玉三郎の子。13世の甥で,養子となる。4世坂東玉三郎,3世坂東しうかを経て,1935年7月勘弥をついだ。すっきりとした容姿にすぐれ,和事系の二枚目を本領としたが,老女方から荒事まで,幅広い役柄を演じた。芸格の小さいのが欠点であったが,晩年には国立劇場の通し狂言上演に,古典歌舞伎の深い造詣を生かし,すぐれた成果を見せた。現在の5世玉三郎(1950- )は養子。
守(森)田座
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「守田勘弥」の解説

守田 勘弥(14代目)
モリタ カンヤ


職業
歌舞伎俳優

本名
守田 好之

別名
前名=坂東 玉三郎(4代目),坂東 志うか(3代目)

屋号
喜之字屋

生年月日
明治40年 3月8日

出生地
東京市(東京都)

経歴
大正3年4代目坂東玉三郎を名乗って東京・歌舞伎座で初舞台。15年に3代目坂東志うかと改名。昭和7年から片岡仁左衛門らと新宿、新歌舞伎座(のち第一劇場)を根城に青年歌舞伎座を結成して活躍したが、のち伯父・守田勘弥(13代目)の養子となり、10年東京歌舞伎座での「三日太平記」の小西行長で14代目を襲名、15代目羽左衛門風の二枚目どころで優れた舞台を見せた。当たり役は「与話情浮名横櫛」の与三郎、「籠釣瓶花街酔醒」の栄之丞など。12年に女優の水谷八重子と結婚して一女(良重)をもうけ、戦中、戦後にしばしば夫婦で一座を組み公演した。26年に離婚。その後、藤間勘紫恵と結婚、5代目玉三郎を養子としている。

受賞
紫綬褒章〔昭和45年〕 テアトロン賞(昭41年度)

没年月日
昭和50年 3月28日 (1975年)

家族
妻=藤間 勘紫恵(日本舞踊家),娘=水谷 八重子(2代目 良重)(女優),養子=坂東 玉三郎(5代目)

親族
伯父=守田 勘弥(13代目)

伝記
人物探訪 地図から消えた東京遺産十三代・十四代 守田勘弥舞台姿 田中 聡 著坂東 玉三郎 編(発行元 祥伝社朝日新聞社 ’00’91発行)


守田 勘弥(13代目)
モリタ カンヤ


職業
歌舞伎俳優

肩書
守田座座元

本名
守田 好作

別名
前名=坂東 三田八

生年月日
明治18年 10月18日

出生地
東京・京橋築地

経歴
明治23年坂東三田八の名で新富座で初舞台を踏み、39年に13世守田勘弥を襲名。歌舞伎界きっての知性派で和事を得意とし、市村座や帝劇などで活躍する一方、大正年間には自ら文芸座を結成、創作劇や翻訳物で新境地を開拓。2代目市川猿之助(のち遠翁)と並んで歌舞伎革新の旗頭と目されながら、早世した。女優・水谷八重子と結婚した14世勘弥の伯父で、養父でもある。

没年月日
昭和7年 6月16日 (1932年)

家族
長男=坂東 好太郎(歌舞伎俳優),孫=坂東 吉弥(2代目),坂東弥十郎(初代)

親族
甥=守田 勘弥(14代目)

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20世紀日本人名事典 「守田勘弥」の解説

守田 勘弥(14代目)
モリタ カンヤ

大正・昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治40(1907)年3月8日

没年
昭和50(1975)年3月28日

出生地
東京市

本名
守田 好之

別名
前名=坂東 玉三郎(4代目),坂東 志うか(3代目)

屋号
喜之字屋

主な受賞名〔年〕
テアトロン賞(昭41年度),紫綬褒章〔昭和45年〕

経歴
大正3年4代目坂東玉三郎を名乗って東京・歌舞伎座で初舞台。15年に3代目坂東志うかと改名。昭和7年から片岡仁左衛門らと新宿、新歌舞伎座(のち第一劇場)を根城に青年歌舞伎座を結成して活躍したが、のち伯父・守田勘弥(13代目)の養子となり、10年東京歌舞伎座での「三日太平記」の小西行長で14代目を襲名、15代目羽左衛門風の二枚目どころで優れた舞台を見せた。当たり役は「与話情浮名横櫛」の与三郎、「籠釣瓶花街酔醒」の栄之丞など。12年に女優の水谷八重子と結婚して一女(良重)をもうけ、戦中、戦後にしばしば夫婦で一座を組み公演した。26年に離婚。その後、藤間勘紫恵と結婚、5代目玉三郎を養子としている。


守田 勘弥(13代目)
モリタ カンヤ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優 守田座座元。



生年
明治18(1885)年10月18日

没年
昭和7(1932)年6月16日

出生地
東京・京橋築地

本名
守田 好作

別名
前名=坂東 三田八

経歴
明治23年坂東三田八の名で新富座で初舞台を踏み、39年に13世守田勘弥を襲名。歌舞伎界きっての知性派で和事を得意とし、市村座や帝劇などで活躍する一方、大正年間には自ら文芸座を結成、創作劇や翻訳物で新境地を開拓。2代目市川猿之助(のち遠翁)と並んで歌舞伎革新の旗頭と目されながら、早世した。女優・水谷八重子と結婚した14世勘弥の伯父で、養父でもある。

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朝日日本歴史人物事典 「守田勘弥」の解説

守田勘弥(12代)

没年:明治30.8.21(1897)
生年:弘化3.9.21(1846.11.9)
歌舞伎劇場の座元,歌舞伎狂言作者。守田座の帳元中村翫左衛門の次男。本名守田寿作。俳名是好。作者名古河新水。文久3(1863)年守田家の養子となり,翌年12代目勘弥を襲名し座元となる。中村座,市村座とともに江戸三座と称した守田座は,万治3(1660)年に森田太郎兵衛によって江戸木挽町に創建された森田座が,11代目勘弥の安政5(1858)年に守田座と改めたもの。天保の改革で浅草猿若町に移転していたが,明治5(1872)年に劇場建設制限が撤廃されると,12代目勘弥は早速に出願して,同年都心の新富町に進出し,一部に椅子席を設けた守田座を開場し,まもなく新富座と改称した。9年に火災で類焼後,外人席,ロビー,ガス灯を設置した演劇改良運動時代にふさわしい斬新な新劇場を再建した。勘弥は文明開化の潮流を洞察して,改良演劇や西洋演劇の翻案,西南戦争のルポルタージュ劇などの上演や夜間興行を実施するなど,歌舞伎の近代化につとめたが,新富座の経営が苦しく晩年は不遇であった。<参考文献>秋庭太郎『東都明治演劇史』,木村錦花『守田勘弥』

(藤波隆之)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「守田勘弥」の解説

守田勘弥
もりたかんや

江戸森(守)田座の座元,歌舞伎俳優。江戸前期から14世を数える。初世(?~1679?)は道化方初世坂東又九郎の子で,森田座の開祖森田太郎兵衛の養子となる。以後,初世の兄坂東又次郎の家系が名跡を相続。11世(1802~63)は4世坂東三津五郎で,3世坂東三津五郎の養子。1850年(嘉永3)森田勘弥を襲名,56年(安政3)森田座を再興,58年森田を守田と改めた。生世話(きぜわ)の妙手。俳名佳朝・秀朝。12世(1846~97)は守田座の帳元中村翫左衛門(かんざえもん)の次男。本名寿作。守田家の養子となり1872年(明治5)都心の新富町に進出し,守田座を新富座と改称。劇場設備や上演脚本を改良し高位高官と交わるなど,歌舞伎の近代化,高尚化に努めた。13世(1885~1933)は12世の三男で本名守田好作。俳名是水など。屋号は喜の字屋。二枚目役を得意とする一方,新作脚本や翻訳劇にも大きな足跡を残した。14世(1907~75)は13世の甥で養子となる。本名守田好之。青年歌舞伎で当り役を演じ人気を集めた。新派女優水谷八重子(初世)と結婚し,のち離婚。

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百科事典マイペディア 「守田勘弥」の意味・わかりやすい解説

守(森)田勘弥【もりたかんや】

歌舞伎俳優。12世までは守(森)田座の座元名で,なかに俳優を兼ねる者もあった。初世は森田座を設立した森田太郎兵衛。2世以後は勘弥と名乗り,11世(4世坂東三津五郎)が守田と改めた。屋号〈喜の字屋〉。12世〔1846-1897〕は守田座を新富町へ移し新富座と改称。劇場の機構制度を改革して,明治の名興行師とうたわれた。13世〔1885-1932〕は12世の三男。芸域の広い俳優で,古典の二枚目から新作,翻訳劇にも成果をあげた。14世〔1907-1975〕は13世の甥(おい)で養子。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「守田勘弥」の意味・わかりやすい解説

守田勘弥(12世)
もりたかんや[じゅうにせい]

[生]弘化3(1846)
[没]1897.8.21.
歌舞伎の守田座座元 (劇場興行主) 。帳元 (劇場支配人) 中村翫左衛門の子で,守田家の養子となった。本名寿作。明治5 (1872) 年に,新制度となったとき,猿若町にあった守田座を新富町に移転し,新しい時代に即応した興行を始めた。 1875年に新富座と改称してから当時の一流俳優を出演させ,官憲,文人と結んで新しい制度を採用,新富座時代と呼ばれる黄金時代を築いた。しかし経営的には苦しく,多くの借財のため 83年には事実上この座の経営から身をひいた。古河新水という作者名で作品も書いた。

守田勘弥(11世)
もりたかんや[じゅういっせい]

[生]寛政12(1800)
[没]文久3(1863).11.18.
歌舞伎の守田座座元 (劇場興行主) ,俳優。3世坂東三津五郎の養子。前名4世坂東三津五郎。4世中村歌右衛門とともに天保年間 (1830~44) に人気を競った。世話物の立役,舞踊の名手で,江戸時代末期の名優。嘉永3 (1850) 年 11世を継ぎ,のち座元となる。

守田勘弥(14世)
もりたかんや[じゅうよんせい]

[生]1907.3.8.
[没]1975.3.28.
歌舞伎俳優。 13世守田勘弥の養子で,本名好之。4世坂東玉三郎,3世しうかより 1935年 14世襲名。二枚目役者として独特の芸域を開いた。新派女優水谷八重子との間の子に水谷良重,また養子に5世玉三郎がいる。

守田勘弥(13世)
もりたかんや[じゅうさんせい]

[生]1885.10.18.
[没]1932.6.16.
歌舞伎俳優。 12世守田勘弥の3男。本名好作。前名坂東三田八から 1906年 13世襲名。古典歌舞伎だけでなく,新作や翻訳劇の面ですぐれた演技力をみせた。大正期を中心に活躍し,研究劇団文芸座を組織し歌舞伎に新生面を開いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「守田勘弥」の解説

守田勘弥(12代) もりた-かんや

1846-1897 明治時代の歌舞伎座元。
弘化(こうか)3年11月9日生まれ。江戸守田座の帳元中村翫左衛門(かんざえもん)の次男。守田家(11代勘弥のとき森田から改姓)の養子となり,12代をつぐ。明治5年守田座を新富町に移転,8年新富座と改称。歌舞伎の近代化をすすめ,団・菊・左の名優をそろえて黄金時代をきずいた。河竹黙阿弥(もくあみ)の門下で劇作もした。明治30年8月21日死去。52歳。江戸出身。本名は寿作。前名は勘次郎。作者名は古河新水。俳名は是好。屋号は喜の字屋。

守田勘弥(14代) もりた-かんや

1907-1975 大正-昭和時代の歌舞伎役者。
明治40年3月8日生まれ。13代守田勘弥の甥(おい)。女役者3代坂東玉三郎の子。4代坂東玉三郎,3代坂東しうかをへて昭和10年14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。水谷八重子(初代)と結婚し,実子に水谷良重(よしえ)(2代水谷八重子),養子に5代坂東玉三郎。昭和50年3月28日死去。68歳。東京出身。本名は好之。俳名は秀佳。屋号は喜の字屋。

守田勘弥(13代) もりた-かんや

1885-1932 明治-昭和時代前期の歌舞伎役者。
明治18年10月18日生まれ。12代守田勘弥の3男。明治27年父の借財により,新富座の権利をうしなった。39年13代を襲名。新作や翻訳劇に意欲的で,大正3年から研究劇団文芸座を主宰した。昭和7年6月16日死去。48歳。東京出身。本名は好作。前名は坂東三田八(3代)。俳名は秀可,是水。屋号は喜の字屋。

守田勘弥(11代) もりた-かんや

坂東三津五郎(ばんどう-みつごろう)(4代)

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367日誕生日大事典 「守田勘弥」の解説

守田 勘弥(13代目) (もりた かんや)

生年月日:1885年10月18日
明治時代-昭和時代の歌舞伎役者
1932年没

守田 勘弥(14代目) (もりた かんや)

生年月日:1907年3月8日
大正時代;昭和時代の歌舞伎役者
1975年没

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世界大百科事典(旧版)内の守田勘弥の言及

【演劇改良運動】より

…江戸時代に悪所とみなされた芝居に対して,明治初年から20年代にかけて試みられたさまざまな改良運動をいう。明治政府の欧化政策や社会各分野の新時代の気運に応じて,まず興行者の12世守田勘弥と9世市川団十郎が,依田学海らの協力を得て,歌舞伎を高尚な演劇に革新することをめざした。有職故実家による史実や時代考証の重視,道徳的規範にのっとった人物像の設定など,いわゆる〈活歴劇〉がそれで,1878年6月,勘弥の新富座開場に際して団十郎は《松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)》を上演したが,民衆の支持を得られなかった。…

【活歴物】より

…明治10年代以降9世市川団十郎を中心に行われた歌舞伎の革新運動のなかで,旧来の荒唐無稽な時代物でなく,史実によって脚色し時代考証による扮装・演出に重きをおいた時代物の作品群をいう。団十郎のこの運動には1872年(明治5)に新劇場を新富町に建設して旧制度の打破を試みた興行師の12世守田勘弥,作者界の第一人者河竹黙阿弥らが協力した。〈活歴〉の語は,78年10月黙阿弥作の《二張弓千種重藤》が上演された際,〈時代物は活きたる歴史〉でなくてはならぬと依田学海らが述べたのに対し,《かなよみ新聞》で仮名垣魯文が〈活歴史〉と評したのにはじまるという。…

【歌舞伎】より

…名優の9世市川団十郎は,明治劇団の中心人物であり,しかも進取の気性に富んでいた。そこで,同じ志を抱いていた興行師12世守田勘弥とともに劇界を代表し,政界,財界,文人たちの後援のもとに,いわゆる〈演劇改良運動〉を実践した。従来の歌舞伎の特徴であった非合理的な筋立てと卑俗な内容をやめ,誇張された様式的演技術を廃し,高尚趣味と写実的・合理的な演技術を用いて,新時代にふさわしい演劇を創り出そうとした。…

【国立劇場】より

… なお,アメリカにも,西欧諸国と比較して少ないにせよ,公共の財政援助はあるが,国立劇場(と劇団)はなく,演劇制作が徹底してプライベートなのはいかにも御国柄を反映していて面白い。【渡辺 淳】
【日本】
 日本に国立劇場を設置しようとする運動は,1873,74年(明治6,7)ごろ,外遊から帰った大久保利通,末松謙澄らから12世守田勘弥がヨーロッパの宮廷劇場の実情を聞いて,計画を立てたときに始まる。欧化政策のもとで,86年,演劇改良会が伊藤博文の支持を得て建築計画に着手したり,1906年に再び伊藤博文を中心に政財界人をひろく集め,国立劇場設立発起人会が開かれたりしたが,いずれも中絶した。…

【興行】より

…京阪においても同様の処置が行われた。12世守田勘弥が,守(森)田座を猿若町から新富町に移転して新富座を新築し,観客席の一部を椅子席として観劇の仕組を改革したり,また植村文楽軒の操芝居が,大阪博労町の稲荷社境内から松島に移って,文楽座と名のって興行をしたのが,ともに明治5年のことである。99年11月に,福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎らによって木挽町に歌舞伎座(1824席)が開場した。…

【座元(座本)】より

…江戸時代の歌舞伎の興行権を持つ者の称。櫓主,太夫元ともいう。江戸では,1624年(寛永1)に猿若(中村)勘三郎が幕府に願い出て,中橋での興行を許されたのが座元の始まりで,以後,都伝内,村山又三郎,山村小兵衛(長太夫),河原崎権之助,森田太郎兵衛,玉川新十郎がそれぞれ劇場を立てて座元となった。57年(明暦3)の江戸大火後,中村勘三郎,市村宇(羽)左衛門,森田勘弥,山村長太夫の4人に限り座元として興行することが許されたが,1714年(正徳4)の江島生島事件で山村長太夫が官許を取り消され,山村座は廃絶した。…

【新富座】より

…しかし,79年9月外人の一座を招いて劇中劇に《漂流奇談西洋劇(ひようりゆうきだんせいようかぶき)》という合同劇を上演させて失敗。このころから座主守田勘弥の負債がかさみはじめ,その後は座主名義を変更したり,座主が変わったりして,座名も猿若座,桐座,深野座,都座などと頻繁に変わっている。97年新富座に復名,1909年松竹合名社が買収,23年関東大震災で焼失するまで存続した。…

※「守田勘弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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