出石城跡(読み)いずしじようあと

日本歴史地名大系 「出石城跡」の解説

出石城跡
いずしじようあと

[現在地名]出石町内町

出石城下の南東、しろ(有子山)の北西山裾谷部にある。城域は東西約四〇〇メートル・南北約三五〇メートルで、出石城下との比高約三六メートル。標高四六・一メートルの最高所に稲荷いなり曲輪を置き、その下に本丸・二の丸・しもの曲輪を連郭式に配置し、二の丸の東に山里やまさと曲輪、西に西にしの曲輪を置き、天守はない。この山裾谷部の五郭を取囲むように城の東西の斜面に巨大な二本の竪堀(幅一〇メートル)を落し、さらに二本の大竪堀と内堀(水堀)をつないで五郭を囲繞するように広大な三の丸(上級家臣の屋敷が並び、内町ともよばれた)を構築している。

慶長九年(一六〇四)出石藩(有子山城主)小出吉政は父秀政の跡を継いで和泉国岸和田藩主となり、吉政の嫡子吉英が出石藩・有子山ありこやま城を継承。この頃に有子山城の居館部を改修して稲荷曲輪から下の曲輪までの出石城(大竪堀を含む)が築城されたものと考えられる。ただし有子山城は当城築城後も詰の城としての役割を果し、元和一国一城令の頃に廃城となったと思われる。また三の丸は有子山廃城後に構築されたと考えられる。以後歴代出石藩主(小出氏のあと松平氏・仙石氏と交替)の居城として幕末に至った。

〔城郭の構造〕

各曲輪の規模は稲荷曲輪が東西五五メートル・南北四八メートル、本丸が東西七五メートル・南北三〇メートル、二の丸が東西六五メートル・南北四三メートル、下の曲輪が東西七五メートル・南北二八メートル、山里曲輪が東西五五メートル・南北二二メートル、西の曲輪が東西三二メートル・南北一〇〇メートル。石垣の高さは稲荷曲輪が一二・八メートルと最も高く、本丸が五・一メートル、二の丸が六・九メートル、下の曲輪が三・九メートルで、石積みは野面積みである。虎口は三の丸から下の曲輪に入るものは内枡形虎口と平入り虎口、下の曲輪から二の丸に入る虎口は内枡形の坂虎口で、本丸と二の丸は渡廊下で連結される特異性をもっている。三の丸は東西三二〇メートル・南北一六〇メートルあり、内堀内部の大部分は高い土塁であるが、重要な大手門・東門・西門には高石垣の枡形虎口を作って防御を固めている。

〔歴代藩主と所領の変遷〕

慶長九年小出吉英は岸和田藩主に転じた父吉政の出石領五万五千石のうち出石・養父やぶ気多けた美含みくみ朝来あさご五郡のうちで五万石を継いだ(五千石は叔父の和泉陶器藩主小出三尹が継ぐ)。同一八年吉政が没すると吉英が岸和田藩主となり、吉政の弟吉親が二万九千七〇〇石(出石・養父・気多・美含四郡と上野国甘楽郡のうち)で出石藩主となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報