別宮浦(読み)べつくうら

日本歴史地名大系 「別宮浦」の解説

別宮浦
べつくうら

[現在地名]徳島市川内町かわうちちよう 上別宮かみべつく下別宮しもべつく住吉すみよし四丁目など

吉野川(別宮川)北岸に位置。上別宮と飛地の下別宮のほか、南岸には向別宮むこうべつくがあった。また北方の吉野川(今切川)河口長原ながはら(現松茂町)は享和二年(一八〇二)まで当浦の枝村であったとされる。上別宮は北は鈴江すずえ村、東は金岡かなおか新田、西・南は名東みようどう下助任しもすけとう村に接し、下別宮は東方の別宮川河口に位置し、当浦の本地として古別宮ふるべつくとも称された。中世から港津として発達し、近世には船荷や旅人などを監視する別宮川口番所が置かれた。また下助任村と結ぶ別宮渡があった。天正一三年(一五八五)蜂須賀家政の阿波入国時には別宮川口に入津したといい、当浦の庄屋当左衛門らは一宮いちのみや城まで案内したと伝える(「一家成立申上覚」御大典記念民政資料)。朝鮮出兵時には加子一三人が船頭として動員され、関ヶ原合戦出陣の際は撫養むや(現鳴門市)までの海上輸送を担ったとされる。大坂の陣の功績により三年間諸役免除となり、島原の乱に際しては三枚帆船三〇艘が徴発されたという(森家文書・「川内村史」)。また当浦は徳島藩蜂須賀家の参勤交代に利用されたといわれる。慶長七年(一六〇二)の板東郡之内別宮島新開検地帳写(川内村史)によれば、田五反余・分米四石余、畠六町五反余・分米四二石余。寛永一四年(一六三七)の板東郡別宮浦新開検地帳写(川内村史)では寺沢小源次の知行分として六石余がある。正保国絵図では高一二六石余、新田とある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高一三六石余。「阿波志」に「旧有別宮八幡故名」とあり、土田等級は下、陸田一〇分の九・水田一〇分の一、反別五九町二反余、租税一七七石で一〇分の二が給地。家数一七二。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高一四三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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