蛭子神社(読み)ひるこじんじや

日本歴史地名大系 「蛭子神社」の解説

蛭子神社
ひるこじんじや

[現在地名]鷲敷町和食

那賀川右岸の字まちにある。主祭神は蛭子大神・天照大神・須佐之男神。旧郷社。和食わじき大明神とも称する。当社は徳治二年(一三〇七)の大洪水により流失したという(社伝)。南北朝期以前に作成されたと考えられる承和三年(八三六)年紀をもつ太龍寺縁起(続徴古雑抄)によると、弘法大師は和食大明神の勧めにより太龍寺たいりゆうじ山に登り修行を行ったと伝える。大宮おおみや八幡神社(現相生町)所蔵の大般若経巻三五五の奥書には永徳三年(一三八三)七月七日に藤原実俊が那賀山延野なかやまのぶの郷の和食大明神に施入したとある。


蛭子神社
ひるこじんじや

[現在地名]久慈市長内町 上長内

小屋畑こやはた川の左岸鎮座。寛永二年(一六二五)勧請で、蛭子命を祭神とすると伝え、お薬師様とも称される。もと大川目おおかわめ村の長福ちようふく寺の薬師堂であったが、明治初年の神仏分離によって薬師如来像が長福寺に移され、蛭子神社となった。文政(一八一八―三〇)頃の法光ほうこう(現青森県三戸郡名川町)に宛てた長福寺口上書(長福寺文書)は、長内おさない村薬師堂は大同二年(八〇七)坂上田村麻呂建立で西光寺跡に残ったもので、大川目村の長福寺に属すると記す。棟札で最も古いのは文明一三年(一四八一)のもので「奉造栄金峯山社檀一宇」とあり、大檀那は南部信濃守嫡子右京助久信となっている。


蛭子神社
えびすじんじや

[現在地名]下津町塩津

塩津しおつ浜に鎮座する塩津浦の産土神。古くは恵比須社とも記す。祭神は蛭子神を主神とし、聖御前と八幡神を相殿とする。旧村社。社叢はカゴノキクスノキなどの老大樹が多く、県指定天然記念物。勧請の由来は不明であるが、元和五年(一六一九)の宮座由来伝記(社蔵)に「北面某と言者一両人この加茂之庄に来テ、漸く塩津州の磯辺に茅家をしつらい(中略)浪人等追々此所に落来て住居す、其末孫枝葉繁茂して今已に四拾八軒に及へり、是宮座家先祖なり」とあり、塩津浦を開いたと伝える四八軒の子孫による宮座があった。また塩津では七月二四日・二五日(現在は八月の盂蘭盆)に社前広場でいな踊(県指定無形民俗文化財)が行われる。


蛭子神社
えびすじんじや

[現在地名]両津市浜田

えびす築地つきじから福浦ふくらへ通ずる旧相川あいかわ道沿いの浜田はまだ地内にある。夷町諏方すわ神社の境外社。「佐渡神社誌」には開基年不詳、祭神は蛭子命とある。社殿は小規模であるが、恵比須神として商人・漁師らに尊崇され、現在も続く夷講市のあることなどから、夷町の総鎮守とされている。夷町の地名もこの蛭子社から起こったといわれる。社殿は正徳三年(一七一三)五月破損、同年九月再建の蛭子社再建帳(夷船組文書)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「蛭子神社」の解説

蛭子神社

(滋賀県米原市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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