別宮村(読み)べつくむら

日本歴史地名大系 「別宮村」の解説

別宮村
べつくむら

[現在地名]鳥越村別宮

大日だいにち川右岸に位置し、西は同川を挟んで清水しみず村・二曲ふとぎ村に接する。加賀馬場禅定道における中宮三社の一つ別宮が所在したとされるのが村名由来と考えられるが、「加賀志徴」の引く郷村名義抄は、村の北端しろ山にあった鳥越城主鈴木出羽守が初め二曲へ移住した際、別の宮を建てたのをその由来とする。江戸時代には、幕府直轄領の白山麓十八ヶ村との領境警備を目的とした加賀藩の別宮奉行が設置された。

正保郷帳では高二一〇石余、田方一町二反余・畑方一一町一反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二三二石、免四ツ五歩、小物成は山役三二匁・漆役一三匁とあるが(三箇国高物成帳)、同年に別宮奉行屋敷分一〇石の引高があった(高免付給人帳)


別宮村
べつくむら

[現在地名]今治市北宝来きたほうらい町二―四丁目・南大門みなみだいもん町二―四丁目・別宮町二―六丁目・同八―九丁目・大正たいしよう町二―七丁目・室屋むろや町五丁目・同七丁目

今治平野の北東部に位置するほぼ方形の平地村。北と東は今治村、南は日吉ひよし村、西は石井いしい村に接する。やや低湿であるが、地味、水利、交通の便に恵まれた村である。

別宮の地名は、越智玉澄が勧請したと伝える別宮大山祇べつくおおやまずみ神社の、大三島おおみしまに対する別宮の意である。「吾妻鏡」元久二年(一二〇五)閏七月二九日甲寅の条に、河野通信麾下の御家人の中に別宮新大夫頼高の名がみられる。


別宮村
べつくうむら

[現在地名]関宮町別宮

葛畑かずらはた村の北西にある。鉢伏はちぶせ(一二二一・一メートル)から東方に延びる尾根の南面に展開する丘陵状の地形の標高六五〇―七〇〇メートルの地域に集落が形成される。地内に山城石清水いわしみず八幡宮の末社熊次くまつぎ別宮(現八幡神社)が鎮座していたことが村名の由来という。近世までは七美しつみ郡に属した。葛畑村で山陰道から分れ、当地に至る熊次別宮への参詣道は別宮道とよばれた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「へつくう」「同にし谷大郎衛門殿 やと」などとみえる。江戸時代は旗本山名領。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)に村名がみえ、高一三一石余。


別宮村
べつくむら

[現在地名]八尾市南本みなみほん町四―八丁目・高美たかみ町四―七丁目・別宮など

八尾八ヵ村の一で今井いまい村の南にある。南は八尾座やおざ村。八ヵ村を結ぶ街道に面して別宮八幡宮(現矢作神社)の鳥居が建つ。地名はこの神社名による。平安時代、この地に山城石清水いわしみず八幡宮の別宮を中心にした掃部かにもり別宮という庄園があった。薦などの調進にあたっていたと考えられる。延久四年(一〇七二)の庄園整理の時、この庄園は存続を認められた。同年九月五日の太政官牒(石清水文書)に「壱処 字掃部別宮 若江郡」「御供田伍町玖段」とあり、その田畑は南条犬甘里・楊田里・門田里・渋川田里・佐奈宜里・竹村里・毛智里・辛国里などにあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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