加江田
かえだ
海江田とも記す。建久図田帳に八条女院領国富庄の一円庄分として加江田八〇丁とみえ、宮崎郡に属し、地頭は平五(実名不詳)であった。この田数と地頭は南北朝末期の図田帳写(長谷場文書)にそのまま継承され、南北朝期に伊東祐重が知行したと伝える国富庄の内容でも八〇町で(日向記)、八〇町が加江田の公田数として維持されていた。
康暦元年(一三七九)三月、伊東・土持両氏は三俣和田城(梶山城か)の合戦で肝付氏を破ると、京都天龍寺領となっていた地域は土持氏に与えられ、このとき加江田は岡富氏に与えられたという(日向記)。この天龍寺領は南北朝期に足利氏関係者の所領となり同寺に寄進されたとみられ、また岡富(現延岡市)が県土持氏の拠点であったことから土持氏の知行に移ったのであろう。応永一〇年(一四〇三)頃、島津氏は加江田の倉底城を攻め落しており、このとき宮崎の軍勢数十人が戦死しているから、加江田は宮崎と一体性をもっていたとみられる(「島津恕翁譜」旧記雑録)。同一七年島津元久は加江田城・倉底城を確保しており(島津国史)、応永年間前後から島津氏・伊東氏などが実際は争奪戦を繰返していたのであろう。同一九年九月島津元久は樺山・北郷・和田・高木諸氏とともに伊東氏を攻めたが、このとき島津方には加江田のほか穆佐高城(現高岡町)、白糸・細江の軍勢が加わっていた。この地域を確保していた中心勢力は土持氏であったが、この合戦で伊東氏は勝利し、土持氏は大淀川下流域の川南・川北の支配権を失うことになったという(「島津久豊譜」旧記雑録)。同二五年加江田城は石塚氏の知行となり、翌二六年加江田車坂城に島津氏が討入った際は島津方の大将伊作惣二郎らが討取られたという(日向記)。同三一年島津久豊は油津(現日南市)に遠征し、伊東安芸守が守城とした加江田城を攻撃するため水軍を組織した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 講談社[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションについて 情報
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