加藤徳成(読み)かとう・とくなり

朝日日本歴史人物事典 「加藤徳成」の解説

加藤徳成

没年:慶応1.10.25(1865.12.12)
生年:天保1.3.5(1830.3.28)
幕末福岡藩の尊王攘夷派の志士通称司書。先祖加藤重徳は,黒田孝高が荒木村重の地下牢に幽閉されていたのを救出した功臣と伝えられる。嘉永6(1853)年ロシア遣日使節プチャーチンの長崎来航の際,藩兵を率い外国奉行川路聖謨を援護した。安政3(1856)年藩の執政に就任し藩内尊攘派の中心となる。第1次長州征討には征長軍解兵を主張し,慶応1(1865)年七卿落ちの三条実美らを太宰府に迎え入れた。同年家老に就任すると薩長同盟実現を目指したが,佐幕派の藩主黒田長溥により辞職させられ,さらに博多天福寺で自刃を命じられた(乙丑の獄)。<参考文献>中野紫葉編『加藤司書

(長井純市)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤徳成」の意味・わかりやすい解説

加藤徳成
かとうとくなり

[生]天保1(1830)
[没]慶応1(1865)
江戸時代末期の福岡藩執政。通称司書。安政3 (1856) 年執政となり,尊攘派の中心として藩内外に活躍。文久3 (63) 年,都落ちした公卿のうち三条実美ら5卿に対する処遇 (→七卿落 ) ,長州征伐における対策,薩長同盟の実現などに努力したが,のち藩内の佐幕派に押えられ辞職,自殺した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤徳成」の解説

加藤徳成 かとう-とくなり

1830-1865 幕末の武士
文政13年3月5日生まれ。筑前(ちくぜん)福岡藩士。安政3年(1856)執政にすすみ,藩の尊攘(そんじょう)派の中心人物となる。第1次幕長戦争では幕府軍の解兵に奔走。七卿落ちの三条実美(さねとみ)らを長門(山口県)から太宰府にむかえた。慶応元年家老となり,薩長同盟の実現につくすが,佐幕派の巻き返しで辞職。慶応元年10月25日自刃(じじん)。36歳。通称は司書。号は観斎。

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367日誕生日大事典 「加藤徳成」の解説

加藤徳成 (かとうとくなり)

生年月日:1830年3月5日
江戸時代末期の尊王攘夷派志士
1865年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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