北品川宿(読み)きたしながわしゆく

日本歴史地名大系 「北品川宿」の解説

北品川宿
きたしながわしゆく

[現在地名]品川区北品川一―六丁目・西品川にししながわ一―三丁目など

江戸時代の東海道品川宿を構成する三宿の一。目黒川に架かるさかい(現品川橋)の北側で歩行かち新宿までの間の東海道に沿った町並をいう。東は海辺で、目黒川河口右岸に砂嘴(兜島)が広がり、一七世紀半ばに南品川猟師みなみしながわりようし町が成立した。当宿に付属する土地・田畑南品川宿ほか周辺の上大崎かみおおさき村・下大崎村・居木橋いるぎばし村・二日五日市ふつかいつかいち村などと入会って散在しており、境は明確ではない。田園簿では品川町として南北一括されており、元禄郷帳に北品川町とみえる。高三六〇石余。このほか北品川町枝郷だい(高五〇石余)が記載されている。天保郷帳・旧高旧領取調帳では北品川宿。歩行新宿成立以降の北品川宿の課役は人足(歩行役)一〇〇人のうち二・五人、馬(伝馬)一〇〇疋のうち五〇疋を負担(天保一四年「品川宿宿方明細書上帳」利田家文書)。文政期(一八一八―三〇)の北品川宿は二七の小名からなり、東海道の両側には本陣のほか旅籠屋などが立並び、その間に稲荷社(現品川神社)東海とうかい寺・清徳せいとく寺・光巌こうごん寺・本照ほんしよう寺・正徳しようとく寺・養願ようがん寺などの神社や寺院とその門前町屋があり、そのほかの地には耕地や林の中に武家の下屋敷などが入組んでいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の北品川宿の言及

【品川】より

…ただ農業については《宿方明細書上帳》が,宿内で手作するものはまれで,多分に入作(いりさく)にしていたと説明しているから,天保年間ころには宿方の百姓は持地を小作に出していたものであろう。 宿場としての品川宿は,宿内町並19丁40間余(2145m余)で,北品川宿,南品川宿,歩行(かち)新宿から成っていた。江戸日本橋へ2里(7854m),川崎宿へ2里半を継ぎ送りする。…

※「北品川宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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