北平野町(読み)きたひらのまち

日本歴史地名大系 「北平野町」の解説

北平野町
きたひらのまち

[現在地名]南区上汐うえしお一―二丁目・東平とうへい一―二丁目・上本うえほん西にし五丁目、天王寺区上汐三丁目・上本うえほん町六丁目

東成ひがしなり郡に属し、西成郡塩町口野畑しおまちぐちのばた瓦土取場かわらつちとりばの南にある。幅六尺ばかりの井路川があり、東成・西成両郡の境界となっていた(「北平野四丁目町内繁栄記録」中之島図書館蔵)。文化一四年(一八一七)の南平野町一件ニ付清水勝玄殿両度箱訴状之写(中之島図書館蔵)によれば、当町は元来南平野町(現天王寺区)と一町で平野町と称した。平野町は天正一一年(一五八三)豊臣秀吉大坂築城のとき、平野郷(のち平野郷町、現平野区)の住民が強制移住させられて建設した町と推定され(兼見卿記・フロイス「日本史」)、「言経卿記」同年閏五月三日条に「大坂平野町」とあるのは当地と考えられる。南北の平野町にある野土のど(野堂)泥堂でいどう(出遠、現天王寺区)などの小字は平野郷町にある町名に由来する。大坂市中であったが、元和元年(一六一五)松平忠明大坂入部のとき町役の地から年貢地へと変更され、南北に分れた。当時忠明は大坂市中の武家屋敷跡地町人に望みしだい与えたので、北・南の平野町からも多くの町人が大坂市中へ移転した。両町内にできた多くの空地は畑にされ、そのまま町役を勤めることは不可能になったため年貢地に申請し、認められた。こうした由緒をもつ地域であったので、両町とも村でありながら町名を名乗り、代々の幕府代官にも認められてきた(前掲箱訴状之写)

北平野町は延宝五年(一六七七)摂州欠郡北平野町五丁目分御検地帳写(土屋家文書)には北平野町、また天明五年(一七八五)の去辰御年貢皆済目録(「大阪北平野町諸記録」大阪市立大学蔵)でも同様で、これが正式名称であるが、慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図は平野町、「摂陽群談」は北平野町村、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳は北平野村、享保一七年(一七三二)改めの摂州河州泉州村々役高并役引高帳(明治大学刑事博物館蔵)では北平野町、天保郷帳では北平野村と町・村が混用されていた。


北平野町
きたひらのまち

南平野町の北にある。延宝五年(一六七七)の摂州欠郡北平野町五丁目分御検地帳写(土屋家文書)に北平野町とあり、一一区画からなるが、そのうち五丁目の南半から七丁目までと、七丁目小組・八丁目・八丁目小組、野土のど町南半が現天王寺区に含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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