百科事典マイペディア 「平野郷」の意味・わかりやすい解説
平野郷【ひらのごう】
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摂津国住吉郡の在郷町(現,大阪市平野区)。中世には平等院領杭全荘(くまたのしよう)などがあったが,戦国期に環濠都市として発展,七名家といわれる末吉,土橋(つちはし),三上,成安,辻葩(つじはな)らが年寄として支配した。自治意識が強く,三好氏の代官本庄加賀守の排斥や,織田信長にも堺と連合して抵抗し,その代官蜂屋頼隆の下代排斥を行った。織田政権下では年貢定金納,地下請(じげうけ),市津料(ししんりよう)・陣夫(じんぷ)免除,徳政免除などの特権を認められ,豊臣前期にもその多くが継続された。1594年(文禄3)太閤検地で高4805石8斗5升となる。郷内は本郷7町で,惣年寄5名と各町年寄が行政を担った。また末吉孫左衛門のように,江戸幕府の代官を務め朱印船貿易を行う豪商を出した。領有関係は織田・豊臣の直轄領,秀吉夫人(高台院)領,徳川直轄領をへて,柳沢吉保領となって以後,一時,幕領になったが,松平,本多,松平,土井と譜代大名領が続いた。
平野郷は大城下町大坂の建設でかなりの住民が移住したが,在郷町として発展した。大坂南部綿作地帯の中心で,17世紀後半には木綿市がたち,竹屋など関東へ繰綿(くりわた)を数百駄も送る商人もでている。戸口は古軒役(こけんやく)552軒であるが,1704年(宝永1)の戸数2543,人口9272人であり,06年1万0686人をピークに停滞する。名産は木綿で,05年綿作率は田方51%,畠方80.7%,このころの木綿関係商工業者は繰屋166軒をはじめ286軒であり,紡車,つむ,綿繰機の道具がつくられている。酒造も1697年(元禄10)造石株(ぞうこくかぶ)561石余があり,多くの商工業をもっていた。また上層民を中心に杭全神社連歌所にみられる文芸活動があり,1717年(享保2)には惣年寄土橋友直らが郷学の含翠堂(がんすいどう)を創立し儒学による教化運動を行った。明治期には綿作は衰退するが平野紡績などができ,大阪南郊の経済的中心となった。1925年大阪市に編入される。
執筆者:脇田 修
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…そのころ原料もエゴマ・ゴマからナタネへと重心が移り,さらに綿実(わたざね)も登場して,ナタネから絞った水油と綿実から絞った白油が近世の油の主流となった。江戸・大坂の需要に応ずる近世の絞油業は,まず大坂長堀川に臨む船場・島之内と天満を中心に展開し,また1705年(宝永2)摂津平野郷には綿実絞油屋が28軒を数えた。14年(正徳4)に大坂へ積み登された商品中,価額の大きいものとして米に次いでナタネ(登せ高15万1000石,銀28万貫)があり,また大坂より諸国へ積み下した商品の筆頭は水油であった。…
…大坂平野郷の豪家末吉の一統で,朱印船貿易家,銀座頭役,それに摂津国平野の代官職を務めた。父は末吉藤右衛門の三男次郎兵衛(長成)といい,その次男が藤次郎(正貞)で姓を平野と改めた。…
※「平野郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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