日本歴史地名大系 「平野町」の解説
平野町
ひらのちよう
平野町
ひらのちよう
平野町
ひらのちよう
平野町
ひらのちよう
「豊公伏見城ノ図」では、平野遠江守の屋敷地で、山城国伏見街衢並近郊図でも「平野丹波守」屋敷地の記入があり、平野氏とのつながりが長かったようで、町名もこれに由来すると考えられる。
「新市域各町誌」は「安政時代には大手筋角に髪結床があり、南へ民家十九戸あったのみで、町中央に西裏の空地へ通路があり、此空地には北寄に稲荷祠、西寄に妙見堂、南寄に御香宮守護札納所が点在し、納札所前には北向に芝居小屋があった。天保年間、伏見奉行内藤豊後守は、荒地開発、土地繁栄のため、この低湿の空閑地を御救ひ土地とし、新規開業の権利を附与したので、中村藤四郎は天保十二年三月、此地を拓き茶問屋を許された」と江戸後期の町の様相を記す。
平野町
ひらのまち
平野町
ひらのまち
平野町
ひらのまち
「和名抄」に平野郷、「延喜式」(兵部省)に山陽道の駅として平野とある地の遺名とされ、早くから山陽道の要所として栄えたらしいが、中世は海上交通が盛んとなり一時衰退したらしい。近世になると
町は
平野町
ひらのまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報