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北条泰家 ほうじょう やすいえ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条泰家 ほうじょう-やすいえ

?-? 鎌倉-南北朝時代の武将。
北条貞時(さだとき)の子。北条高時の弟。執権就任をはたせず正中(しょうちゅう)3年(1326)出家。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年新田義貞軍に敗れ,幕府滅亡の際,北条高時の子らを脱出させる。還俗(げんぞく)して時興と改名し,建武(けんむ)2年(1335)京都で再挙をはかったが失敗。その最期は不明。初名は時利。通称は四郎。法名は慧性,恵性,恵清。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

北条泰家

生年:生没年不詳
鎌倉後期の武将。北条貞時と安達泰宗(もしくは安達時顕)の娘の子。はじめ四郎時利と称した。嘉暦1(1326)年,同母兄高時が執権を辞し,出家したあと執権就任を望んだが,内管領長崎高資は,北条一門の金沢貞顕を執権にした。このため,出家(法名恵性,また恵清)したが,金沢貞顕もわずか1カ月で執権を辞任した。泰家の怒りを恐れてのことだといわれる。元弘3(1333)年5月,反北条の兵を挙げた新田義貞を武蔵(東京都)分倍河原でいったんは破ったものの,結局敗退して,鎌倉に逃げ帰った。高時自刃,鎌倉幕府滅亡に際して高時の遺児を脱出させたのち,自分も鎌倉から逃れた。還俗して時興と改名,京都の西園寺公宗邸に潜伏して再挙をはかったが,建武2(1335)年6月,事前に発覚して逃走した。翌年信濃(長野県)で挙兵したが,その後の消息は明らかでない。

(新田英治)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条泰家
ほうじょうやすいえ

鎌倉時代後期の武将。生没年未詳。父は執権北条貞時(さだとき)、母は安達泰宗(あだちやすむね)の女(むすめ)である大方殿、また一説に安達時顕(ときあき)の女ともいう。初め相模四郎時利(ときとし)と称し、法名は恵性(えしょう)(慧性、恵清とも)。官途は左近大夫将監(さこんたいふしょうげん)、位階は従五位下(じゅごいのげ)。1326年(嘉暦1)3月同母兄北条高時のあとの執権就任を望んだが、内管領(ないかんれい)長崎高資(たかすけ)はこれに反対し、金沢貞顕(かねさわさだあき)を据えた。このため泰家は出家するにいたり、貞顕もわずか10日余りで出家して執権を辞した。これは泰家の怒りを恐れたためといわれている。1333年(元弘3)5月武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)・関戸河原(せきどがわら)に新田義貞軍と戦い、当初は勝利を収めたものの、その後三浦氏の来援を受けた新田軍に敗れて鎌倉へ撤退した(分倍河原の戦)。幕府滅亡に際し得宗被官(とくそうひかん)諏訪盛高(すわもりたか)に命じて、高時の遺児時行を北条氏の影響力のある信濃国へ脱出させ、自らも陸奥国(むつのくに)へ逃れた。還俗(げんぞく)して刑部少輔(ぎょうぶしょう)時興(ときおき)を名乗って京都西園寺公宗(さいおんじきんむね)邸に潜伏し、信濃の時行や北陸の名越時兼(なごえときかね)ら北条氏与党を結集して建武政権に対し蜂起を図ったが、1335年(建武2)6月に発覚して遁走した。翌年2月信濃で南朝方として挙兵したが、その後の消息は明かではない。[渡辺智裕]

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