日本大百科全書(ニッポニカ) 「北条泰家」の意味・わかりやすい解説
北条泰家
ほうじょうやすいえ
鎌倉時代後期の武将。生没年未詳。父は執権北条貞時(さだとき)、母は安達泰宗(あだちやすむね)の女(むすめ)である大方殿、また一説に安達時顕(ときあき)の女ともいう。初め相模四郎時利(ときとし)と称し、法名は恵性(えしょう)(慧性、恵清とも)。官途は左近大夫将監(さこんたいふしょうげん)、位階は従五位下(じゅごいのげ)。1326年(嘉暦1)3月同母兄北条高時のあとの執権就任を望んだが、内管領(ないかんれい)長崎高資(たかすけ)はこれに反対し、金沢貞顕(かねさわさだあき)を据えた。このため泰家は出家するにいたり、貞顕もわずか10日余りで出家して執権を辞した。これは泰家の怒りを恐れたためといわれている。1333年(元弘3)5月武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)・関戸河原(せきどがわら)に新田義貞軍と戦い、当初は勝利を収めたものの、その後三浦氏の来援を受けた新田軍に敗れて鎌倉へ撤退した(分倍河原の戦)。幕府滅亡に際し得宗被官(とくそうひかん)諏訪盛高(すわもりたか)に命じて、高時の遺児時行を北条氏の影響力のある信濃国へ脱出させ、自らも陸奥国(むつのくに)へ逃れた。還俗(げんぞく)して刑部少輔(ぎょうぶしょう)時興(ときおき)を名乗って京都西園寺公宗(さいおんじきんむね)邸に潜伏し、信濃の時行や北陸の名越時兼(なごえときかね)ら北条氏与党を結集して建武政権に対し蜂起を図ったが、1335年(建武2)6月に発覚して遁走した。翌年2月信濃で南朝方として挙兵したが、その後の消息は明かではない。
[渡辺智裕]