十市皇女(読み)とおちのひめみこ

改訂新版 世界大百科事典 「十市皇女」の意味・わかりやすい解説

十市皇女 (とおちのひめみこ)
生没年:?-678(天武7)

天武天皇皇女。母は額田王天智天皇皇子大友皇子の妃となり,葛野(かどの)王をもうけた。しかし672年壬申の乱で夫が父と皇位を争ったときは父方に従った。後世伝承では大友皇子方の情報をひそかにフナの腹に入れて父に送っていたとする。678年宮中で急死大和赤穂に葬られた。《万葉集》に高市皇子が死を悼む歌があり,乱後,異母兄高市皇子と結ばれていたとの説もある。
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百科事典マイペディア 「十市皇女」の意味・わかりやすい解説

十市皇女【とおちのおうじょ】

天武天皇の皇女,母は額田王(ぬかたのおおきみ)。大友皇子の妃となり葛野(かどの)王をもうけた。夫と父が皇位を争った672年の壬申の乱で大友皇子が没したのちは父の許に帰る。678年宮中で急死,大和国赤穂に葬られた。

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朝日日本歴史人物事典 「十市皇女」の解説

十市皇女

没年:天武7.4.7(678.5.3)
生年:生年不詳
7世紀,大友皇子(天智天皇の子)の妃。父は天武天皇,母は額田女王で,その第1子か。天智8(669)年ごろ葛野王を出産するが,天武1(672)年壬申の乱で夫を失う。しかし母額田女王も皇女も,戦いには巻き込まれていない。『宇治拾遺物語』などでは,皇女が夫大友の動静を父に通報していたとするが,乱に際して母も娘も自分の夫と行動を共にしていない理由は別に,考える必要があるだろう。乱後は父のもとにいたことが明らかで,天武4(675)年には伊勢神宮へ参詣している。同7年宮中で急死。大和の赤穂に葬られた。赤穂の地としては奈良市高畑町,桜井市赤尾,広陵町三吉が候補とされている。

(児島恭子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「十市皇女」の解説

十市皇女 とおちのおうじょ

?-678 飛鳥(あすか)時代,天武天皇の皇女。
母は額田王(ぬかたのおおきみ)。大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)の妃となり,葛野王(かどののおう)を生む。壬申(じんしん)の乱で夫が父の大海人(おおあまの)皇子(天武天皇)に攻められ,自殺したのち父のもとにもどる。天武天皇7年4月7日宮中で急死。「万葉集」に高市(たけちの)皇子のよんだ挽歌(ばんか)3首がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十市皇女」の意味・わかりやすい解説

十市皇女
とおちのおうじょ

[生]?
[没]天武7(678)
天武天皇の皇女。母は額田王。天智天皇の子大友皇子 (弘文天皇) の妃となり,葛野王を産んだ。壬申の乱で大友皇子が殺されたため,乱後父天皇に引取られた。天武4 (675) 年伊勢に参向したことを詠んだ歌が『万葉集』にみられる。

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世界大百科事典(旧版)内の十市皇女の言及

【額田王】より

…生没年不詳。《日本書紀》天武天皇条に,鏡王の娘で,はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁して十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだとあるほかは,伝もつまびらかでない。父の鏡王に関しても不明。…

※「十市皇女」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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