日本歴史地名大系 「千里村」の解説 千里村せんりむら 福岡県:福岡市西区千里村[現在地名]西区千里飯氏(いいじ)村の西、瑞梅寺(ずいばいじ)川右岸の平地にある。怡土(いと)郡に属し、西は志摩(しま)郡池田(いけだ)村(現前原市)。東部を大根(だいこん)川(現周船寺川)がほぼ北へ流れる。文明一〇年(一四七八)九月に豊前・筑前を回復した大内政弘は両国の土地を家臣団に宛行い、同年一〇月一三日とみられる日には、由利伊豆守氏惟に「怡土郡千里村」四町が宛行われた(年欠「大内政弘下文写」正任記)。慶長期(一五九六―一六一五)以前に飯氏村から分離したとも推定され(続風土記拾遺)、小早川時代の指出前之帳では、千里村は田一五町余(分米二二〇石余)・畠二町七反余(分大豆一二石余)となっている。慶長七年の検地高は六三九石余(慶長石高帳)。 千里村ちさとむら 福島県:双葉郡富岡町千里村[現在地名]富岡町上手岡(かみておか)・本岡(もとおか)上手岡村の東、麓(は)山山麓から緩やかに傾斜して東に広がる標高一〇〇メートルの丘陵上にある。近来は「せんり」とよぶが、本来は「ちさと」である。元禄郷帳に村名がみえ、高五九六石余。延享四年(一七四七)の上手岡村明細帳(内藤家文書)によれば、元禄二年(一六八九)滝川(たきがわ)江筋開削とあり、下流に大規模な新田開発が行われ、同四年手岡村および本町(もとまち)村の一部が分村して千里村が成立したという。年不詳の所々新田開発覚(いわき市史)も、千里新田開発を元禄四年とする。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by