コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

南部信直 なんぶ のぶなお

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

南部信直 なんぶ-のぶなお

1546-1599 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)15年3月1日生まれ。陸奥(むつ)三戸(さんのへ)城(青森県)城主南部晴政の養子となり,天正(てんしょう)10年三戸城主。のち豊臣秀吉との連携をつよめる。19年九戸城(岩手県)を再興,福岡城と称し本城とする。文禄(ぶんろく)元年秀吉より盛岡城築城の許可をえる。文禄の役で肥前名護屋城(佐賀県)に赴任。陸奥盛岡藩藩祖。慶長4年10月5日死去。54歳。通称は田子九郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

南部信直

没年:慶長4.10.5(1599.11.22)
生年:天文15(1546)
戦国・安土桃山時代の武将。陸奥国糠部郡田子城(青森県田子町)城主南部高信の子。永禄8(1565)年ごろに本家の三戸城主南部晴政の養子となり,晴政の娘を正室とする。正室らの死去により,一時田子城に戻ったが,晴政らの死により,天正10(1582)年再度三戸城主に返り咲いた。このころの南部氏の領国は本領の糠部郡を中心として,北は津軽,西は鹿角,南は岩手,閉伊郡などにおよんでいたが,必ずしも安定したものではなかった。このため信直は領国の安定と,他氏に蚕食された所領の奪還のため各地に出兵した。さらに中央政権とも巧みに連携する動きをみせる。すなわち14年家臣を前田利家のもとに送り,豊臣秀吉との繋がりを依頼し,翌年に利家の血判誓紙を得て,それを成功させている。だが18年の秀吉の小田原攻めののち,信直に安堵されたのは「南部内七郡」だけであった。翌年九戸政実の反乱を平定したのち,稗貫,和賀の両郡が与えられて,9郡10万石の大名となった。九戸城(岩手県二戸市)を再興して福岡城となし本城とした。

(伊藤喜良)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

なんぶのぶなお【南部信直】

1546‐99(天文15‐慶長4)
戦国末期の武将。陸奥国三戸(さんのへ)城主(現,青森県三戸町)。南部氏一族高信の子。1582年(天正10)本家をつぎ三戸城主となる。90年豊臣秀吉より南部の内7郡を安堵される。翌年,九戸政実の乱平定にさいして和賀,稗貫(ひえぬき),志和3郡を加増され,都合10郡,10万石を領す。その後盛岡城(現,岩手県盛岡市)築城に着手するなど近世における盛岡藩の基礎を築く。【今野 真】

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

なんぶのぶなお【南部信直】

1546~1599) 戦国時代の武将。盛岡藩藩祖。豊臣秀吉に臣従し本領安堵。九戸政信の反乱を鎮圧。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

世界大百科事典内の南部信直の言及

【南部氏】より

…しかし戦国期の南部氏では,宗家の三戸家のほかに八戸,九戸などの一族が独立的な勢力として存在し,対立,紛争が続いていた。90年(天正18)三戸の南部信直が豊臣秀吉から南部7郡(三戸,二戸,九戸,北,鹿角,岩手,閉伊)の領有を認められ,翌年一族の九戸政実の反乱を豊臣秀次以下の豊臣勢の出兵を得て克服し,豊臣大名ついで近世大名としての地位を確保した。その間居城を三戸から福岡(九戸),不来方(こずかた)(盛岡市)へと移すが,不来方築城には信直,利直,重直の3代を要し,着手は92年(文禄1),完成は1633年(寛永10)といわれる。…

【和賀・稗貫一揆】より

…1590年(天正18)陸奥国に起きた一揆。同年7月,豊臣秀吉による南部信直に対する〈南部内七郡〉宛行によって,和賀・稗貫両郡は南部領に編入され,和賀・稗貫両氏は従来の領主権を失った。同年10月葛西・大崎氏の旧領に一揆が蜂起したのに続いて,和賀義忠と稗貫広忠は一族以下を率い,鬼柳伊賀守らをさそって,稗貫郡鳥谷ヶ崎(とやがさき)城に秀吉麾下の浅野庄左衛門重吉を攻囲した。…

※「南部信直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

南部信直の関連キーワード円通寺(青森県)福岡(岩手県)和賀・稗貫一揆日本のおもな城二戸[市]盛岡[市]岩手(県)二戸(市)盛岡城跡高水寺城八戸根城浅瀬石城九戸城跡南部利直本領安堵戦国時代石川城二戸市北信愛雫石城

南部信直の関連情報